・・・ しかも渠は交番を出でて、路に一個の老車夫を叱責し、しかしてのちこのところに来たれるまで、ただに一回も背後を振り返りしことあらず。 渠は前途に向かいて着眼の鋭く、細かに、きびしきほど、背後には全く放心せるもののごとし。いかんとなれば・・・ 泉鏡花 「夜行巡査」
・・・ その四 ちょうどその日は樽の代り目で、前の樽の口のと異った品ではあるが、同じ価の、同じ土地で出来た、しかも質は少し佳い位のものであるという酒店の挨拶を聞いて、もしや叱責の種子にはなるまいかと鬼胎を抱くこと大方ならず、か・・・ 幸田露伴 「雁坂越」
・・・私は口が下手だから、そんないかめしい役所へ出て、きっと、へどもどまごついて、とんちんかんのことばかり口走り、意味なく叱責されるであろう。そうして、私には何となく、挙動不審の影があらわれて、あらぬ疑いさえ被り、とんでもない大難が、この身にふり・・・ 太宰治 「春の盗賊」
・・・文楽や歌舞伎に精通した一部の読者の叱責あるいは微笑を買うであろうという、一種のうしろめたさを感じないわけにはゆかない。 自分が文楽を見たころにちょうどチャップリンが東京に来ていた。だれかきっとチャップリンを文楽へ案内するだろうと予期して・・・ 寺田寅彦 「生ける人形」
・・・人殺しの罪人でさえも官費で弁護士がつけられる世の中に、効はあっても罪のない論文提出者は八方から虫眼鏡で瑕を捜され叱責されることになるのである。たとえ明白な誤謬は一つもない論文であっても、一人の人間が限りある時間に仕遂げた仕事であってみれば、・・・ 寺田寅彦 「学位について」
・・・ もうむずかしいと思えばこそ達はその病的な叱責にあまんじて居た。 達は、父の不快の原因をいろいろと考えたけれどもまさか、自分の肉体が、父の感情を害して居るなどとは思いつき様もなかった。 発作的に息子を打って、そのパシッと云ういか・・・ 宮本百合子 「栄蔵の死」
・・・そういう父から、母へ来たのはインド洋をこしての叱責だった。あのお前が洋服だと思っている服は西洋の女のネマキであること。はいているクツは人目に見せるべきものでない室内靴であること。ああいう写真は二度とよこしてくれるな。恥しい、ということであっ・・・ 宮本百合子 「菊人形」
・・・女性の一生の見かたのなかに日頃からそういうモメントがふくまれていることには寸毫も思いめぐらさないで、全級の前での嘲りをこめた叱責と水で洗いおとさせるという処置しかできなかったのも、おそらくはその時分の正しさについての常識の粗野さであったろう・・・ 宮本百合子 「歳月」
・・・彼は非常に興奮した口調で殆ど叱責する様に私には分らない種々の事を説き聞かせた。 そして終には、教会の説教台に立って、幾百かの聴衆を前にして居ると同様に、手を動かし眉をあげて、いよいよ声高に云うのを見て居ると、私は何よりも先ず激しい恐怖に・・・ 宮本百合子 「追憶」
・・・正月元日に明治神宮の参道をみたす大衆の中に、インテリゲンチャは何人まざっていたかと当時の知識人を叱責した彼のその情報局的見地に立ったものでした。 日本の降伏後、言論の自由、思想と良心と行動の自由があるようになったはずです。でもその現実は・・・ 宮本百合子 「討論に即しての感想」
出典:青空文庫