・・・ なるべく水の浅い道筋を選ばねばならぬ。それで自分は、天神川の附近から高架線の上を本所停車場に出て、横川に添うて竪川の河岸通を西へ両国に至るべく順序を定めて出発した。雨も止んで来た。この間の日の暮れない内に牽いてしまわねばならない。人々・・・ 伊藤左千夫 「水害雑録」
一「満蔵満蔵、省作省作、そとはまっぴかりだよ。さあさあ起きるだ起きるだ。向こうや隣でや、もう一仕事したころだわ。こん天気のえいのん朝寝していてどうするだい。省作省作、さあさあ」 表座敷の雨戸をがらがらあ・・・ 伊藤左千夫 「隣の嫁」
・・・何人に配ったか知らぬが、僅に数回の面識しかない浅い交際の私の許へまで遣したのを見るとかなり多数の知人に配ったらしいが、新聞社を他へ譲渡すの止むを得ない事情を縷々と訴えたかなり長い手紙を印刷もせず代筆でもなく一々自筆で認めて何十通も配ったのは・・・ 内田魯庵 「三十年前の島田沼南」
・・・女学生の立っている右手の方に浅い水溜があって、それに空が白く映っている。それが草原の中に牛乳をこぼしたように見える。白樺の木共はこれから起って来る、珍らしい出来事を見ようと思うらしく、互に摩り寄って、頸を長くして、声を立てずに見ている。・・・ 著:オイレンベルクヘルベルト 訳:森鴎外 「女の決闘」
・・・ 二郎は、寺の前の小さな橋のわきに立って、浅い流れのきらきらと日の光に照らされて、かがやきながら流れているのを、ぼんやりとながめていました。 彼はほんとうに、このときはさびしいと思っていたのであります。 ちょうど、このとき、奥深・・・ 小川未明 「赤い船のお客」
・・・日頃、附合いの良いたちで、無理に誘われると断り切れなかったなんて、浅い口実だ。何ごとにつけてもいやと言い切れぬ気の弱いたちで……などといってみたところで、しかし外の場合と違うではないか。それとも見合いなんかどうでも良かったのだろうか。私なん・・・ 織田作之助 「天衣無縫」
・・・東京にあるものは、根柢の浅い外来の文化と、たかだか三百年来の江戸趣味の残滓に過ぎない。大体われ/\の文学が軽佻で薄っぺらなのは一に東京を中心とし、東京以外に文壇なしと云う先入主から、あらゆる文学青年が東京に於ける一流の作家や文学雑誌の模倣を・・・ 織田作之助 「東京文壇に与う」
・・・それよりか海に行こうとお絹の高い声に、店の内にて、もう遅いゆえやめよというは叔父なり、『叔父さんまだ起きていたの、今汐がいっぱいだからちょっと浴びて来ます浅いところで。』『危険危険遅いから。』『吉さんにいっしょに行ってもらい・・・ 国木田独歩 「置土産」
・・・家にむかいあった崕の下に四角の井戸の浅いのがありまして、いつも清水を湛えていました。総体の様子がどうも薄気味の悪いところで、私はこの坂に来て、武の家の前を通るたびにすぐ水滸伝の麻痺薬を思い出し、武松がやられました十字坡などを想い出したくらい・・・ 国木田独歩 「女難」
・・・こんなことはいうまでもないことと思う。浅い生活をしていて良い芸術を生むことは不可能である。但しここに良い生活というのは迷いや慎みや、あるいは罪がない生活という意味ではない。そういうものを持ちながらも正しい生活に達しようとして努力する生活をい・・・ 倉田百三 「芸術上の心得」
出典:青空文庫