・・・寺田寅彦さんと云う方は御座らぬかとわめくボーイの濁声うるさければ黙って居けるがあまりに呼び立つる故オイ何んだと起き上がれば貴方ですかと怪訝顔なるも気の毒なり。何ぞと言葉を和らげて聞けば、上等室の苅谷さんからこれを貴方へ、と差出す紙包あくれば・・・ 寺田寅彦 「東上記」
・・・それは『失礼ですが貴方の顔が著しく猿に似ているという事実が貴方の学説をひどく左右したのだと思います』というのであった。」 一八六八年の米国旅行から帰ってから、彼は自分の実験に着手した。ルムコルフコイル、グローヴ電池、無定位電流計、大きな・・・ 寺田寅彦 「レーリー卿(Lord Rayleigh)」
・・・「あの、深水さんがね、貴方のことを――」 夕闇の底に、かえってくっきりとみえる野菊の一とむらがあるところで、彼女はしゃがんでそれをつみとりながら、顔をあおのけていった。「――青井は未来の代議士だって、妾も、信じますわ」 こい・・・ 徳永直 「白い道」
・・・驚いて箸を持ったまま、思わず音のする彼方を見返ると、底びかりのする神秘な夜の空に、宵の明星のかげが、たった一ツさびし気に浮いているのが見える。枯れた樹の梢に三日月のかかっているのを見ることもある。 やがて日の長くなることが、やや際立って・・・ 永井荷風 「鐘の声」
・・・辻を曲ると、道の片側には小家のつづいた屋根のうしろに吉原の病院が見え、片側は見渡すかぎり水田のつづいた彼方に太郎稲荷の森が見えた。吉原田圃はこの処をいったのである。裏田圃とも、また浅草田圃ともいった。単に反歩ともいったようである。 吉原・・・ 永井荷風 「里の今昔」
・・・すると重吉は別に気にかける様子もなく、万事貴方にお任せするからよろしく願いますと言ったなり、平気でいた。刺激に対して急劇な反応を示さないのはこの男の天分であるが、それにしても彼の年齢と、この問題の性質から一般的に見たところで、重吉の態度はあ・・・ 夏目漱石 「手紙」
・・・いいよ、君、彼方へ行っても好いよ」「ねえ。では御二人さんとも馬車で御越しになりますか」「そこが今悶着中さ」「へへへへ。八時の馬車はもう直ぐ、支度が出来ます」「うん、だから、八時前に悶着をかたづけて置こう。ひとまず引き取ってく・・・ 夏目漱石 「二百十日」
・・・が、われわれの方は人間であるという事が大切な事で、社会上よりいうときは御互に社会の一員であるけれども、われわれの方は貴方がたに比べて人間という事が大事になる。 ところがここに腕の人でもなく頭の人でもない一種の人がある。資本家というものが・・・ 夏目漱石 「無題」
・・・その時分の生徒は皆恐らく今此所には一人もいないでしょう、卒業したでしょうけれども、しかし貴方がたはその後裔といいますか、跡続ぎ見たような子分見たような者で、その親分をこの教場で度々虐めていた事などがあるから、その子か孫に当るような人などは何・・・ 夏目漱石 「模倣と独立」
・・・貴方がたでもなければ彼方がたでもない、私は一個の夏目漱石というものを代表している。この時私はゼネラルなものじゃない、スペシァルなものである。私は私を代表している、私以外の者は一人も代表しておらない。親も代表しておらなければ、子も代表しておら・・・ 夏目漱石 「模倣と独立」
出典:青空文庫