・・・しかるに豹一は半分逃足だった。会わす顔もないと思っていたところを偶然出くわしたので、まごまごしていた。いきなり逃げだそうとしたその足へ、とたんに自尊心が蛇のように頭をあげてきて、からみついた。あんな恥かしいところを見られたのだから名誉を回復・・・ 織田作之助 「雨」
・・・平生、まずいものを食いなれている百姓が、顔を見合すと、飯のまずいことをぶつ/\云う日が多くなった。 かつてのかゝりつけの安斎医学博士の栄養説によると、台湾に住んでいてわざ/\内地米を取りよせて食っていた者があったそうだが、内地米が如何に・・・ 黒島伝治 「外米と農民」
・・・杭と杭とをつなぎ合す線は、今度はいくらか蛇のようにうねってきた。「またもう一つ、別の電車をつくんじゃろうか。」 親爺は、測量をする一と組の作業を見てきて心配げな顔をした。「こんなへんぴへ二つも電車をつけることはないだろう。」・・・ 黒島伝治 「浮動する地価」
・・・全世界に於て、プロレタリアートが、両手を合わすことをやめて、それを拳に握り締めだした。そういう頃だった。 M――鉱業株式会社のO鉱山にもストライキが勃発した。 その頃から、資本家は、労働者を、牛のように、「ボ」とか、「アセ」「ヒカエ・・・ 黒島伝治 「土鼠と落盤」
・・・どれが、誰れの手か、どれが、誰の足か、頭か、つぎ合すのに困るようにバラ/\になってしまった。――そんなことが幾度あったか知れない。それは、昔から検査官に内所にしてあった。彼の祖父は、百尺上から、落ちて来た、坑木に腰を砕かれて死んでしまった。・・・ 黒島伝治 「土鼠と落盤」
・・・山火事の場合は居合わす人数の少ないだけに、損害は大概莫大ではあるが、金だけですむ。 デパートアルプスの頂上から見おろした銀座界隅の光景は、飛行機から見たニューヨーク、マンハッタンへんのようにはなはだしい凹凸がある。ただ違うのはこっちのい・・・ 寺田寅彦 「銀座アルプス」
・・・これらの失敗に際して実験者当人は、必要条件を具備すれば、結果は予期に合すべきを信ずるが故にあえて惑う事なしとするも、いまだ科学的の思弁に慣れず原因条件の分析を知らざる一般観者は不満を禁ずる能わざるべし。また場合により実験の結果が半ばあるいは・・・ 寺田寅彦 「自然現象の予報」
・・・それからシベリアの一地方でコムスというのは、ふくれた胴に皮が張ってあるが、弦は二本で五度に合わすとある。振るっているのはホッテントットの用いる三弦の弦楽器にガボウイというのがあり、ザンジバルの胡弓にガブスというのがある。また一方では南洋セレ・・・ 寺田寅彦 「日本楽器の名称」
・・・例えば時代や、季節や、人間の階級や、死因や、そういう標識に従って類別すれば現われ得べき曲線上の隆起が、各類によって位置を異にしたりするために、すべてを重ね合すことによって消失するのではあるまいか。 このような空想に耽ってみたが、結局は統・・・ 寺田寅彦 「厄年と etc.」
・・・そしておひろとも手が切れたけれど、どうかするとよその座敷などで、おひろは山根と顔を合わすこともあった。 それに辰之助も長いあいだ、ほとんど地廻りのようにこの巷に足を入れていて、お絹たちとはことに深い馴染なので、芝居見物のことなどで、彼の・・・ 徳田秋声 「挿話」
出典:青空文庫