・・・されど童らはもはやこの火に還ることをせず、ただ喜ばしげに手を拍ち、高く歓声を放ちて、いっせいに砂山の麓なる家路のほうへ馳せ下りけり。 今は海暮れ浜も暮れぬ。冬の淋しき夜となりぬ。この淋しき逗子の浜に、主なき火はさびしく燃えつ。 たち・・・ 国木田独歩 「たき火」
・・・ 青年は絶えずポケットの内なる物を握りしめて、四辺の光景には目もくれず、野を横ぎり家路へと急ぎぬ。ポケットの内なるは治子よりの昨夜の書状なり。短き坂道に来たりし時、下より騎兵二騎、何事をか声高に語らいつつ登りくるにあいたれどかれはほとん・・・ 国木田独歩 「わかれ」
・・・いつでもあの坂の上に近いところへ出ると、そこに自分らの家路が見えて来る。だれかしら見知った顔にもあう。暮れから道路工事の始まっていた電車通りも石やアスファルトにすっかり敷きかえられて、橡の並み木のすがたもなんとなく見直す時だ。私は次郎と二人・・・ 島崎藤村 「嵐」
・・・ そう言って、私は家路に近い町のほうへとまた車をいそがせた。 かなりくたぶれて私は家に帰り着いた。ほとんど一日がかりでその日の用達に奔走し、受け取った金の始末もつけ、ようやく自分の部屋にくつろいで見ると、肩の荷物をおろしたような・・・ 島崎藤村 「分配」
・・・ とそっと言い、私も首肯いて帰り支度をはじめ、一緒にたのしく家路をたどる事も、しばしばございました。「なぜ、はじめからこうしなかったのでしょうね。とっても私は幸福よ」「女には、幸福も不幸も無いものです」「そうなの? そう言わ・・・ 太宰治 「ヴィヨンの妻」
・・・ 僕はころげるようにして青扇の家から出て、夢中で家路をいそいだものだ。けれど少しずつ落ちつくにつれて、なんだか莫迦をみたというような気がだんだんと起って来たのである。また一杯くわされた。青扇の思い詰めたようなはっきりした口調も、四十二歳・・・ 太宰治 「彼は昔の彼ならず」
・・・ ――ダンテ・アリギエリ 晩秋の夜、音楽会もすみ、日比谷公会堂から、おびただしい数の烏が、さまざまの形をして、押し合い、もみ合いしながらぞろぞろ出て来て、やがておのおのの家路に向って、むらむらぱっと飛び立つ。・・・ 太宰治 「渡り鳥」
・・・ 山道のトロッコにうっかり乗った子供が遠くまではこばれた後に車から降ろされただ一人取り残されて急に心細くなり、夢中になって家路をさしていっさんに駆け出す。泣きだしそうにはなるが一生懸命だから思うようには泣けない、ただ鼻をくうくう鳴らすだ・・・ 寺田寅彦 「自由画稿」
・・・さびしい野道を牛車に牧草を積んだ農夫がただ一人ゆるゆる家路へ帰って行くのを見たときにはちょっと軽い郷愁を誘われた。カールスルーエからはもうすっかり暗くなって、月明かりはあったが景色は見えなかった。科学を誇る国だけに鉄路はなめらかで、汽車の動・・・ 寺田寅彦 「旅日記から(明治四十二年)」
・・・ そういう晩には綿入羽織をすっぽり頭からかぶって、その下から口笛と共に白い蒸気を吹出しながら、なるべく脇目をしないようにして家路を急いだものである。そういう時にまたよく程近い刑務所の構内でどことなく夜警の拍子木を打つ音が響いていた。そう・・・ 寺田寅彦 「追憶の冬夜」
出典:青空文庫