・・・長兄は、長兄としての威厳を保っていなければならぬ。長兄は、弟妹たちに較べて、あまり空想力は、豊富でなかった。物語は、いたって下手くそである。才能が、貧弱なのである。けれども、長兄は、それ故に、弟妹たちから、あなどられるのも心外でならぬ。必ず・・・ 太宰治 「愛と美について」
・・・とあたかも一つの決心がついたかのごとく呟くが、しかし、何一つとしてうまい考えは無く、谷間の老人は馬に乗って威厳のある演説をしようとするが、馬は老人の意志を無視してどこまでも一直線に歩き、彼は演説をしながら心ならずも旅人の如く往還に出て、さら・・・ 太宰治 「『井伏鱒二選集』後記」
・・・と、地団駄踏んで、その遺言書に記してあったようだが、私も、いまは、その痛切な嘆きには一も二も無く共鳴したい。たかが熊本君ごときに、酒を飲む人の話は、信用できませんからね、と憫笑を以て言われても、私には、すぐに撥ね返す言葉が無い。冷水摩擦を毎・・・ 太宰治 「乞食学生」
・・・と、この場合あまり適切とは思えない叱咤の言を叫び威厳を取りつくろう為に、着物の裾の乱れを調整し、「僕は、君を救助しに来たんだ。」 少年は上半身を起し、まつげの長い、うるんだ眼を、ずるそうに細めて私を見上げ、「君は、ばかだね。僕がここ・・・ 太宰治 「乞食学生」
・・・ 襟は遺言をもって検事に贈る。どうとも勝手にするがいい。 故郷を離れて死ぬるのはせつない。涙が翻れて、もうあとは書けない。さらばよ。我がロシア。附言。本文中二箇所の字句を改刪してある。これは諷刺の意を誤解せられては差支え・・・ 著:ディモフオシップ 訳:森鴎外 「襟」
・・・ハース氏はベデカを片手に一人でよく話していたが大尉夫妻はドイツ軍人の威厳を保っているかのように多くは黙っていた。T氏と自分もそれぞれの思いにふけっておし黙っていた。その――土地の人の目にはさだめて異様であったろうと思うわれわれ一組の観客の前・・・ 寺田寅彦 「旅日記から(明治四十二年)」
・・・洪積期の遺物と見られる泥炭地や砂地や、さもなければはげた岩山の多いのに驚いたことであったが、また一方で自然の厳父の威厳の物足りなさも感ぜられた。地震も台風も知らない国がたくさんあった。自然を恐れることなしに自然を克服しようとする科学の発達に・・・ 寺田寅彦 「日本人の自然観」
・・・みんなに看護の礼を言って暇ごいをして、自分の死後妻には自由を与えてやってくれと遺言して、静かに息を引きとったそうである。 急を聞いて国へ帰っていた亮の弟からその時の詳しい様子を聞いた時に、私はなんだかほっとしたような心持ちがした。ほとん・・・ 寺田寅彦 「亮の追憶」
・・・父と兄とは唯々として遺言の如く、憐れなる少女の亡骸を舟に運ぶ。 古き江に漣さえ死して、風吹く事を知らぬ顔に平かである。舟は今緑り罩むる陰を離れて中流に漕ぎ出づる。櫂操るはただ一人、白き髪の白き髯の翁と見ゆ。ゆるく掻く水は、物憂げに動いて・・・ 夏目漱石 「薤露行」
・・・が勝つ場合についてのみあえてするが、その他負色の見えすいたような衝突になるといつでも御免蒙るのが吾家伝来の憲法である、さるによってこの尨大なる荷車と老朽悲鳴をあげるほどの吾が自転車との衝突は、おやじの遺言としても避けねばならぬ、と云って左右・・・ 夏目漱石 「自転車日記」
出典:青空文庫