・・・彼は、このいじらしいようすが、腹立たしくもありました。そして、にらみつけたのです。 しかし、夢中で走っている吉坊にはわからないのでした。「ああ、おれが悪かった。」と、父親は、心の中で泣いたのです。「ばかめ、自転車の後をおっかける・・・ 小川未明 「父親と自転車」
・・・まことにそれも結構であるが、しかし、これが日本の文化主義というものであろうと思って見れば、文化主義の猫になり、杓子になりたがる彼等の心情や美への憧れというものは、まことにいじらしいくらいであり、私のように奈良の近くに住みながら、正倉院見学は・・・ 織田作之助 「可能性の文学」
・・・この気持はそのまま、お千鶴に貧乏の苦労をさせたくないという、われながらいじらしい気持と通ずる。と、こう言い切ってしまうと、簡単でわかりやすく、殊勝でもあり、大向うの受けは良いのだが無論それもある。が、それだけでは、新派めいて、気が引ける。あ・・・ 織田作之助 「勧善懲悪」
・・・ ほろりとした声になった。女の子は夢中になって、ガツガツと食べると、「おっちゃん、うちミネちゃん言うねん。年は九つ」 いじらしい許りの自己紹介だった。「ふーん。ミネちゃんのお父つぁんやお母はんは……?」 きくと、ミネ子は・・・ 織田作之助 「昨日・今日・明日」
・・・この十八歳の娘さんのいじらしいばかりに健気な気持については、註釈めいたものは要らぬだろう。ひとはしばらく眼をつぶって、この娘さんの可憐な顔を想像してくれるがよい。 織田作之助 「十八歳の花嫁」
・・・しかし大学にある間だけの費用を支えるだけの貯金は、恐ろしい倹約と勤勉とで作り上げていたので、当人は初めて真の学生になり得たような気がして、実に清浄純粋な、いじらしい愉悦と矜持とを抱いて、余念もなしに碩学の講義を聴いたり、豊富な図書館に入った・・・ 幸田露伴 「観画談」
・・・燐みを乞う切ない眼の潤み、若い女の心の張った時の常の血の上った頬の紅色、誰が見てもいじらしいものであった。「どうぞ、然様いう訳でございますれば、……の御帰りになりまする前までに、こなた様の御力を以て其品を御取返し下さいまするよう。」・・・ 幸田露伴 「雪たたき」
・・・紙に包んで帰り際に残しおかれた涎の結晶ありがたくもないとすぐから取って俊雄の歓迎費俊雄は十分あまえ込んで言うなり次第の倶浮れ四十八の所分も授かり融通の及ぶ限り借りて借りて皆持ち寄りそのころから母が涙のいじらしいをなお暁に間のある俊雄はうるさ・・・ 斎藤緑雨 「かくれんぼ」
・・・あなたを、おしたい申しているのよ。いじらしいじゃないの。 ――たまらん。 ――おや、おや。やっぱり、お汗が多いのねえ。あら、お袖なんかで拭いちゃ、みっともないわよ。ハンケチないの? こんどの奥さん、気がきかないのね。夏の外出には、ハ・・・ 太宰治 「愛と美について」
・・・一丈の山椒魚がこの世に在ると思い込んでいるところが、いじらしいじゃないか。」「三尺五寸! 小さい。小さすぎる。伯耆国淀江村の、――」「およしなさい。見世物の山椒魚は、どれでもこれでもみんな伯耆国は淀江村から出たという事になっているん・・・ 太宰治 「黄村先生言行録」
出典:青空文庫