・・・帳場と店とは小僧対手に上さんが取り仕切って、買出しや得意廻りは親父の方から一人若衆をよこして、それに一切任せてある。 今日は不漁で代物が少なかったためか、店はもう小魚一匹残らず奇麗に片づいて、浅葱の鯉口を着た若衆はセッセと盤台を洗ってい・・・ 小栗風葉 「深川女房」
・・・元祖本家黒焼屋の津田黒焼舗と一切黒焼屋の高津黒焼惣本家鳥屋市兵衛本舗の二軒が隣合せに並んでいて、どちらが元祖かちょっとわからぬが、とにかくどちらもいもりをはじめとして、虎足、縞蛇、ばい、蠑螺、山蟹、猪肝、蝉脱皮、泥亀頭、手、牛歯、蓮根、茄子・・・ 織田作之助 「大阪発見」
・・・ そんな手落ちはあったが、その代りそれに続く一節は、筆者の脚色力はさきの事実の見落しを補って余りあるほど逞しく、筆勢もにわかに鋭い。 ――口に蜜ある者は腹に剣を蔵する。一人分八百円ずつ、取るものは取ったが、しかし、果して新聞の広告文・・・ 織田作之助 「勧善懲悪」
・・・ 冒頭の一節、「古雑布」「古綿を千切る」「古障子」などの形容は勿論あなたのおっしゃるように視覚的ではありません。しかし、視覚的というのは絵と映画に任せて置きましょう。僕らは漬物のような色をした太陽を描いてもよいわけではありませんか。・・・ 織田作之助 「吉岡芳兼様へ」
・・・ ………… 空行李、空葛籠、米櫃、釜、其他目ぼしい台所道具の一切を道具屋に売払って、三百に押かけられないうちにと思って、家を締切って八時近くに彼等は家を出た。彼は書きかけの原稿やペンやインキなど入れた木通の籠を持ち、尋常二年生の・・・ 葛西善蔵 「子をつれて」
・・・ これがこの動物の活力であり、智慧であり、精霊であり、一切であることを私は信じて疑わないのである。 ある日私は奇妙な夢を見た。 X――という女の人の私室である。この女の人は平常可愛い猫を飼っていて、私が行くと、抱いていた胸から、いつ・・・ 梶井基次郎 「愛撫」
・・・以前私を喜ばせたどんな美しい音楽も、どんな美しい詩の一節も辛抱がならなくなった。蓄音器を聴かせてもらいにわざわざ出かけて行っても、最初の二三小節で不意に立ち上がってしまいたくなる。何かが私を居堪らずさせるのだ。それで始終私は街から街を浮浪し・・・ 梶井基次郎 「檸檬」
・・・ 糸につれて唄い出す声は、岩間に咽ぶ水を抑えて、巧みに流す生田の一節、客はまたさらに心を動かしてか、煙草をよそに思わずそなたを見上げぬ。障子は隔ての関を据えて、松は心なく光琳風の影を宿せり。客はそのまま目を転じて、下の谷間を打ち見やりし・・・ 川上眉山 「書記官」
・・・「それでも勇気を鼓して近づいてみると女でした、無論その顔は見えないが、路にぬぎ捨てある下駄を見ると年若の女ということが分る……僕は一切夢中で紅葉館の方から山内へ下りると突当にあるあの交番まで駈けつけてその由を告げました……」「その女・・・ 国木田独歩 「牛肉と馬鈴薯」
・・・さもあらばあれ、われこの翁を懐う時は遠き笛の音ききて故郷恋うる旅人の情、動きつ、または想高き詩の一節読み了わりて限りなき大空を仰ぐがごとき心地す」と。 されど教師は翁が上を委しく知れるにあらず。宿の主人より聞きえしはそのあらましのみ。主・・・ 国木田独歩 「源おじ」
出典:青空文庫