・・・と言いも終らず番頭、がっぱと泣き伏し、お内儀、「げえっ!」とのけぞる。木枯しの擬音。 ほとんど、ひや酒は、陰惨きわまる犯罪とせられていたわけである。いわんや、焼酎など、怪談以外には出て来ない。 変れば変る世の中である。 私が・・・ 太宰治 「酒の追憶」
・・・お母さんも、もうかえって居られる。れいに依って、何か、にぎやかな笑い声。お母さんは、私と二人きりのときには、顔がどんなに笑っていても、声をたてない。けれども、お客様とお話しているときには、顔は、ちっとも笑ってなくて、声ばかり、かん高く笑って・・・ 太宰治 「女生徒」
・・・かんに合槌うたなくたってよい。はじめから君の気持ちで言っているのだ。けれどもいまの僕なら、そんなことぐらい平気だ。かえって快感だ。枕のしたを清水がさらさら流れているようで。あきらめじゃない。王侯のよろこびだよ」ぐっと甘酒を呑みほしてから、だ・・・ 太宰治 「ダス・ゲマイネ」
・・・記憶が、よみがえって来ないのだ。ひどいと思った。こんなにも、綺麗さっぱり忘れてしまうものなのか。あきれたのである。アンドレア・デル・サルト。思い出せない。それは、一体、どんな人です。わからない。笠井さんは、いつか、いつだったか、その人に就い・・・ 太宰治 「八十八夜」
・・・釜のない煙筒のない長い汽車を、支那苦力が幾百人となく寄ってたかって、ちょうど蟻が大きな獲物を運んでいくように、えっさらおっさら押していく。 夕日が画のように斜めにさし渡った。 さっきの下士があそこに乗っている。あの一段高い米の叺の積・・・ 田山花袋 「一兵卒」
・・・「あんまり超越し過ぎるとあとで世の中が、いやになって、かえって困るぜ。だからそこのところは好加減に超越して置く事にしようじゃないか。僕の足じゃとうていそうえらく超越出来そうもないよ」「弱い男だ」 筒袖の下女が、盆の上へ、麦酒を一・・・ 夏目漱石 「二百十日」
・・・ 清作はすっかりどぎまぎしましたが、ちょうど夕がたでおなかが空いて、雲が団子のように見えていましたからあわてて、「えっ、今晩は。よいお晩でございます。えっ。お空はこれから銀のきな粉でまぶされます。ごめんなさい。」と言いました。・・・ 宮沢賢治 「かしわばやしの夜」
・・・と云って茶の間にお入りになると娘は中みのえった包を小わきにかかえて丁寧なおじぎをして出て行った。「お祖母様今の娘どうしたの」と早速うかがわずにはいられなかった。お祖母様は「今の娘はねー、お前なんぞ夢にも見た事のない苦しい思をして居るんだよ、・・・ 宮本百合子 「同じ娘でも」
・・・若しあんまり二人で別れんのがつらかったら京都の娘になっちまいましょう、ネ、そうすりゃあいいんだもの下らない事考えっこなし……」「ほんまに……考えん方がいいのやけど、わての仲ようする人は皆早うどこぞへ行ってしもうたりどうでも別れにゃあなら・・・ 宮本百合子 「ひな勇はん」
・・・作者はついに日本へ帰えってきた。そしてこの決定は正しかった。モスクで二つの大きな魅かれるものの間で、全心が身体とともにゆすぶられながら、次第に方向を見出してゆくその過程が描れている。 当時、検閲はきびしかった。まして長い禁止の後に、また・・・ 宮本百合子 「「広場」について」
出典:青空文庫