・・・それらの恋愛論はそして結婚論は今日こういう問が出てくることに対してどういう責任を負うのでしょう。幸福というものはできあい品となってヤミ市に売っているものではありません。わたしたちを不幸にしている今日の現実の社会の矛盾と闘って人間らしい生活を・・・ 宮本百合子 「生きるための恋愛」
・・・なるほど、勇吉の家が、表側ぱっと異様に明るく、煙もにおう。気負って駆けつけ、「水だ、水だ、皆手を貸せ」と叫んだ勘助は、おやと尋常でないその場の光景に気をのまれた。勇吉の家では、今障子に火がついたところだ。ひどい勢いで紙とさんが燃え上・・・ 宮本百合子 「田舎風なヒューモレスク」
・・・犬はすぐに食おうともせず、尾をふって五助の顔を見ていた。五助は人間に言うように犬に言った。「おぬしは畜生じゃから、知らずにおるかも知れぬが、おぬしの頭をさすって下されたことのある殿様は、もうお亡くなり遊ばされた。それでご恩になっていなさ・・・ 森鴎外 「阿部一族」
・・・二羽の鷹はどういう手ぬかりで鷹匠衆の手を離れたか、どうして目に見えぬ獲物を追うように、井戸の中に飛び込んだか知らぬが、それを穿鑿しようなどと思うものは一人もない。鷹は殿様のご寵愛なされたもので、それが荼の当日に、しかもお荼所の岫雲院の井戸に・・・ 森鴎外 「阿部一族」
・・・ 子供の母はつくづく聞いていたが、世間の掟にそむいてまでも人を救おうというありがたい志に感ぜずにはいられなかった。そこでこう言った。「承われば殊勝なお心がけと存じます。貸すなという掟のある宿を借りて、ひょっと宿主に難儀をかけようかと、そ・・・ 森鴎外 「山椒大夫」
・・・お見忘になりましたか知れませんが、戦地でお世話になった輜重輸卒の麻生でござります。」「うむ。軍司令部にいた麻生か。」「はい。」「どうして来た。」「予備役になりまして帰っております。内は大里でございます。少佐殿におなりになって・・・ 森鴎外 「鶏」
・・・往来はほとんど絶えていて、その家の門に子を負うた女が一人ぼんやりたたずんでいる。右のはずれの方には幅広く視野をさえぎって、海軍参考館の赤煉瓦がいかめしく立ちはだかっている。 渡辺はソファに腰をかけて、サロンの中を見廻した。壁のところどこ・・・ 森鴎外 「普請中」
・・・さてもあのまま鎌倉までもしは追うて出で行いたか。いかに武芸をひとわたりは心得たとて……この血腥い世の中に……ただの女の一人身で……ただの少女の一人身で……夜をもいとわず一人身で……」 思えば憎いようで、可哀そうなようで、また悲しいようで・・・ 山田美妙 「武蔵野」
・・・むくつけい暴男で……戦争を経つろう疵を負うて……」「聞くも忌まわしい。この最中に何とて人に逢う暇が……」 一たびは言い放して見たが、思い直せば夫や聟の身の上も気にかかるのでふたたび言葉を更めて、「さばれ、否、呼び入れよ。すこしく・・・ 山田美妙 「武蔵野」
・・・いを殺し、腰蓑の鋭さに水滴を弾いて、夢、まぼろしのごとく闇から来り、闇に没してゆく鵜飼の灯の燃え流れる瞬間の美しさ、儚なさの通過する舞台で、私らの舟も舷舷相摩すきしみを立て、競り合い揺れ合い鵜飼の後を追う。目的を問う愚もなさず、過去を眺める・・・ 横光利一 「鵜飼」
出典:青空文庫