・・・ チラチラと眩ゆい点描きの風景、魚族のように真黒々な肌一杯に夏を吸いながら、ドブンと飛び込む黒坊――躍る水煙、巨大な黒坊、笑う黒坊、蛙のような黒坊。 卿はどうして其那に水が好きなのか。 如何うして其那に笑うのだろう、卿等は―・・・ 宮本百合子 「一粒の粟」
・・・浜の砂の上に大きな圏を作って踊る。男も女も、手拭の頬冠をして、着物の裾を片折って帯に挟んでいる。襪はだしもあるが、多くは素足である。女で印袢纏に三尺帯を締めて、股引を穿かずにいるものもある。口々に口説というものを歌って、「えとさっさ」と囃す・・・ 森鴎外 「鶏」
・・・そこへ出現して来た栖方の新武器は、聞いただけでも胸の躍ることである。それに何故また自分はその武器を手にした悪人のことなど考えるのだろうか。ひやりと一抹の不安を覚えるのはどうしたことだろうか。――梶は自分の心中に起って来たこの二つの真実のどち・・・ 横光利一 「微笑」
・・・公共の任務のために忙しく自動車を駆るものは致し方がないが、私利をはかるために、またはホテルで踊るために、自動車を駆るものに対しては、父は何を感ずるであろう。天下万民が「おのおのその志を遂げ、人心をして倦まざらしめんことを要す」とは、明治大帝・・・ 和辻哲郎 「蝸牛の角」
・・・同じ面がもし長唄で踊る肢体を獲得したならば、さらにまた全然別の面になってしまうであろう。 以上の考察から我々は次のように言うことができる。面は元来人体から肢体や頭を抜き去ってただ顔面だけを残したものである。しかるにその面は再び肢体を獲得・・・ 和辻哲郎 「面とペルソナ」
出典:青空文庫