・・・の理由で闇に葬られるかも知れないと思ったが、手錠をはめられた江戸時代の戯作者のことを思えば、いっそ天邪鬼な快感があった。デカダンスの作家ときめられたからとて、慌てて時代の風潮に迎合するというのも、思えば醜体だ。不良少年はお前だと言われるとも・・・ 織田作之助 「世相」
・・・おれは別れることにこんなに悲しんでいるのだという姿を、女にも自分にも見せて、自虐的な涙の快感に浸っていたのだろう。泣いている者が一番悲しんでいるわけではないのだ。 しかし泣けない私たちが憧れるのは、とにもかくにも泣けた青春時代であろう。・・・ 織田作之助 「中毒」
・・・ 謙遜は美徳であると知っていても、結局は己惚れの快感のもつ誘惑に負けてしまうのが、小人の浅ましさだろうか。謙遜の美徳すら己惚れから発するものだと、口の悪いラ・ロシュフコオあたりは言いそうである。僕とてご多分に洩れず、相応の己惚れである。・・・ 織田作之助 「僕の読書法」
・・・…… 悪の華 午前六時の朝日会館――。 と、こうかけば読者は「午後六時の朝日会館」の誤植だと思うかも知れない。 たしかに午前六時の朝日会館など、まるで日曜日の教室――いや、それ以上に、ひっそりとして、味気なくて・・・ 織田作之助 「夜光虫」
・・・鋭い悲哀を和らげ、ほかほかと心を怡します快感は、同時に重っ苦しい不快感である。この不快感は日光浴の済んだあとなんとも言えない虚無的な疲れで病人を打ち敗かしてしまう。おそらくそれへの嫌悪から私のそうした憎悪も胚胎したのかもしれないのである。・・・ 梶井基次郎 「冬の蠅」
・・・それを知る度におげんはある哀しい快感をさえ味わった。漠然とした不安の念が、憂鬱な想像に混って、これから養生園の方へ向おうとするおげんの身を襲うように起って来た。町に遊んでいた小さな甥達の中にはそこいらまで一緒に随いて来るのもあった。おげんは・・・ 島崎藤村 「ある女の生涯」
・・・彼は地から直接に身体へ伝わる言い難い快感を覚えた。時には畠の土を取って、それを自分の脚の弱い皮膚に擦り着けた。 塾の小使も高瀬には先生だった。音吉は見廻りに来て、鍬の持ち方から教えた。 毎日のように高瀬は塾の受持の時間を済まして置い・・・ 島崎藤村 「岩石の間」
・・・長く濃かった髪は灰色に変って来て、染めるに手数は掛かったが、よく手入していて、その額へ垂下って来るやつを掻上げる度に、若い時と同じような快感を覚えた。堅い地を割って、草の芽も青々とした頭を擡げる時だ。彼は自分の内部の方から何となく心地の好い・・・ 島崎藤村 「刺繍」
・・・ 私は、開巻第一頁に、三田君のあのお便りを、大きい活字で組んで載せてもらいたかったのである。あとの詩は、小さい活字だって構わない。それほど私はあのお便りの言々句々が好きなのである。 御元気ですか。 遠い空から御伺いします。 ・・・ 太宰治 「散華」
・・・かえって快感だ。枕のしたを清水がさらさら流れているようで。あきらめじゃない。王侯のよろこびだよ」ぐっと甘酒を呑みほしてから、だしぬけに碾茶の茶碗を私の方へのべてよこした。「この茶碗に書いてある文字、――白馬驕不行。よせばいいのに。てれくさく・・・ 太宰治 「ダス・ゲマイネ」
出典:青空文庫