・・・ 二三日して、寒くなったので着物をき換えたとき、袂に何か入っているらしいので、オヤと思って手探ぐりにすると、小さいカードのようなものが出てきた。卯の歳 文珠菩薩守本尊 金と朱で書いた「お守」だった。 マル・・・ 小林多喜二 「独房」
・・・ラケットを鍬に代えてからの太郎は、学校時代よりもずっと元気づいて来て、翌年あたりにはもう七貫目ほどの桑を背負いうるような若者であった。 次郎と三郎も変わって来た。私が五十日あまりの病床から身を起こして、発病以来初めての風呂を浴びに、鼠坂・・・ 島崎藤村 「嵐」
・・・暮れから道路工事の始まっていた電車通りも石やアスファルトにすっかり敷きかえられて、橡の並み木のすがたもなんとなく見直す時だ。私は次郎と二人でその新しい歩道を踏んで、鮨屋の店の前あたりからある病院のトタン塀に添うて歩いて行った。植木坂は勾配の・・・ 島崎藤村 「嵐」
・・・――では早くお着換えなさいましな。女の着物なんか召しておかしいわ」と微笑む。自分は笑って、袖を翳してみる。「さっきね」と、藤さんは袂へ手を入れて火鉢の方へ来る。「これごらんなさい」と、袂の紅絹裏の間から取りだしたのは、茎の長い一輪の・・・ 鈴木三重吉 「千鳥」
・・・とおりに何かへんな物音がすると、すぐにとんでいって、じいっと見きわめをつけ何でもないとわかればのそのそかえって、店先にすわっているという調子です。 日がはいると、肉屋はくちぶえをならしてよび入れました。そして、やさしく背中をたたいたあと・・・ 鈴木三重吉 「やどなし犬」
・・・ と黒鳥の歌が松の木の間で聞こえるとともに馬どもはてんでんばらばらにどこかに行ってしまって、四囲は元の静けさにかえりました。 そこで二人は第二の門を通ってまたかきがねをかけました。 その先には作物を作らずに休ませておく畑があって・・・ 著:ストリンドベリアウグスト 訳:有島武郎 「真夏の夢」
・・・「数学の歴史も、振りかえって見れば、いろいろ時代と共に変遷して来たことは確かです。まず、最初の段階は、微積分学の発見時代に相当する。それからがギリシャ伝来の数学に対する広い意味の近代的数学であります。こうして新しい領分が開けたわけですから、・・・ 太宰治 「愛と美について」
・・・そのほか、ふたりの着換えの着物ありったけ、嘉七のどてらと、かず枝の袷いちまい、帯二本、それだけしか残ってなかった。それを風呂敷に包み、かず枝がかかえて、夫婦が珍らしく肩をならべての外出であった。夫にはマントがなかった。久留米絣の着物にハンチ・・・ 太宰治 「姥捨」
・・・これに引きかえて、発戸河岸の松原あたりは、実際行ってみて知っているので、その地方を旅行した人たちからよくほめられた。 刀根川の土手の上の草花の名をならべた一章、これを見ると、いかにも作者は植物通らしいが、これは『日記』に書いてあるままを・・・ 田山花袋 「『田舎教師』について」
・・・しかし念には念を入れるがいいと思って、ホテルを換えた。勘定は大分嵩張っていた。なぜと云うに、宿料、朝食代、給仕の賃銀なんぞの外に、いろいろな筆数が附いている。町の掃除人の妻にやった心附け、潜水夫にやった酒手、私立探偵事務所の費用なんぞである・・・ 著:ディモフオシップ 訳:森鴎外 「襟」
出典:青空文庫