・・・戸外の景色に引きかえて此処はいつものように平和である。 嵐の話になって婆さんは古い記憶の中から恐ろしくも凄かった嵐を語る。辰さんが板敷から相槌をうつ。いつかの大嵐には黒い波が一町に余る浜を打上がって松原の根を洗うた。その時沖を見ていた人・・・ 寺田寅彦 「嵐」
・・・ナンキン錠をいくらつけ換えても、すぐ打ちこわされるので、根気負けがしたのである。無論土方か職人のしわざに相違ない。 池の周囲の磁力測量、もっとも伏角だけではあるが、数年来つづけてやって来て、材料はかなりたまっている。地形によって説明され・・・ 寺田寅彦 「池」
・・・彼は兄の病臥している山の事務所を引き揚げて、その時K市のステーションへ著いたばかりであったが、旅行先から急電によって、兄の見舞いに来たので、ほんの一二枚の著替えしかもっていなかったところから、病気が長引くとみて、必要なものだけひと鞄東京の宅・・・ 徳田秋声 「挿話」
・・・涼しい滝縞の暖簾を捲きあげた北国特有の陰気な中の間に、著物を著かえているおひろの姿も見えた。「おいでなさい」お絹は二人を迎えたが、母親とはまた違って、もっときゃしゃな体の持主で、感じも瀟洒だったけれど、お客にお上手なんか言えない質である・・・ 徳田秋声 「挿話」
・・・孝の字を忠に代えて見るがいい。玉体ばかり大切する者が真の忠臣であろうか。もし玉体大事が第一の忠臣なら、侍医と大膳職と皇宮警手とが大忠臣でなくてはならぬ。今度の事のごときこそ真忠臣が禍を転じて福となすべき千金の機会である。列国も見ている。日本・・・ 徳冨蘆花 「謀叛論(草稿)」
・・・私は乳母が衣服を着換えさせようとするのも聞かず、人々の声する方に馳け付けたが、上框に懐手して後向きに立って居られる母親の姿を見ると、私は何がなしに悲しい、嬉しい気がして、柔い其の袖にしがみつきながら泣いた。「泣蟲ッ、朝腹から何んだ。」と・・・ 永井荷風 「狐」
・・・浅草という土地がら、大道具という職業がらには似もつかず、物事が手荒でなく、口のききようも至極穏かであったので、舞台の仕事がすんで、黒い仕事着を渋い好みの着物に着かえ、夏は鼠色の半コート、冬は角袖茶色のコートを襲ねたりすると、実直な商人としか・・・ 永井荷風 「草紅葉」
・・・日本服に着換えて、身顫いをしてようやくわれに帰った頃を見計って婆さんはまた「どうなさいました」と尋ねる。今度は先方も少しは落ついている。「どうするって、別段どうもせんさ。ただ雨に濡れただけの事さ」となるべく弱身を見せまいとする。「い・・・ 夏目漱石 「琴のそら音」
・・・世間並みの夫婦として別にひとの注意をひくほどの波瀾もなく、まず平穏に納まっているから、人目にはそれでさしつかえないようにみえるけれども、姉娘の父母はこの二、三年のあいだに、苦々しい思いをたえず陰でなめさせられたのである。そのすべては娘のかた・・・ 夏目漱石 「手紙」
・・・主客の対立を形式と内容または質料との対立に代えても同様である。フィヒテに至っては、周知の如く、かかる不徹底的矛盾を除去すべく、認識主観の実体化の方向に進んだ。述語的主体は自己自身を限定する形而上学的実体となった。それがフィヒテの超越的自我で・・・ 西田幾多郎 「デカルト哲学について」
出典:青空文庫