・・・僕は勿論社会科学に何の知識も持っていなかった。が、資本だの搾取だのと云う言葉にある尊敬――と云うよりもある恐怖を感じていた。彼はその恐怖を利用し、度たび僕を論難した。ヴェルレエン、ラムボオ、ヴオドレエル、――それ等の詩人は当時の僕には偶像以・・・ 芥川竜之介 「彼」
・・・政治、実業、芸術、科学、――いずれも皆こう云う僕にはこの恐しい人生を隠した雑色のエナメルに外ならなかった。僕はだんだん息苦しさを感じ、タクシイの窓をあけ放ったりした。が、何か心臓をしめられる感じは去らなかった。 緑いろのタクシイはやっと・・・ 芥川竜之介 「歯車」
・・・この応用化学の大学教授は大きい中折れ鞄を抱え、片目だけまっ赤に血を流していた。「どうした、君の目は?」「これか? これは唯の結膜炎さ」 僕はふと十四五年以来、いつも親和力を感じる度に僕の目も彼の目のように結膜炎を起すのを思い出し・・・ 芥川竜之介 「歯車」
・・・昔は錬金術を教えた悪魔も今は生徒に応用化学を教えている。それがにやにや笑いながら、こう保吉に話しかけた。「おい、今夜つき合わんか?」 保吉は悪魔の微笑の中にありありとファウストの二行を感じた。――「一切の理論は灰色だが、緑なのは黄金・・・ 芥川竜之介 「保吉の手帳から」
・・・そして私の思うところによれば、生命ある思想もしくは知識はその根を感情までおろしていなければならない。科学のようなごく客観的に見える知識でさえが、それを組み上げた学者の感情によって多少なり影響されているのを見ることがあるではないか。いわんやそ・・・ 有島武郎 「片信」
・・・又私の処で夜おそくまで科学上の議論をしていた一人の若い科学者は、帰途晴れ切った冬の夜空に、探海燈の光輝のようなものが或は消え或は現われて美しい現象を呈したのを見た。彼は好奇心の余り、小樽港に碇泊している船について調べて見たが、一隻の軍艦もい・・・ 有島武郎 「北海道に就いての印象」
・・・ 自己主張的傾向が、数年前我々がその新しき思索的生活を始めた当初からして、一方それと矛盾する科学的、運命論的、自己否定的傾向と結合していたことは事実である。そうしてこれはしばしば後者の一つの属性のごとく取扱われてきたにかかわらず、近来(・・・ 石川啄木 「時代閉塞の現状」
・・・ すなわち真の詩人とは、自己を改善し自己の哲学を実行せんとするに政治家のごとき勇気を有し、自己の生活を統一するに実業家のごとき熱心を有し、そうしてつねに科学者のごとき明敏なる判断と野蛮人のごとき卒直なる態度をもって、自己の心に起りくる時・・・ 石川啄木 「弓町より」
・・・冷汗を流して、談判の結果が三分、科学的に数理で顕せば、七十と五銭ですよ。 お雪さんの身になったらどうでしょう。じか肌と、自殺を質に入れたんですから。自殺を質に入れたのでは、死ぬよりもつらいでしょう。―― ――当時、そういった様子でし・・・ 泉鏡花 「木の子説法」
・・・ それも科学の権威である。物理書というのを力に、幼い眼を眩まして、その美しい姉様たちを、ぼったて、ぼったて、叩き出した、黒表紙のその状を、後に思えば鬼であろう。 台所の灯は、遙に奥山家の孤家の如くに点れている。 トその壁の上を窓・・・ 泉鏡花 「国貞えがく」
出典:青空文庫