・・・「私どものは、なアに、もう、どうでもいいので、始終私が家のことをやきもき致していまして、心配こそ掛けることはございましても、一つとして頼みにならないのでございますよ。私は、もう、独りで、うちのことやら、子供のことやらをあくせくしているの・・・ 岩野泡鳴 「耽溺」
・・・すると生憎運動に出られたというので、仕方がなしに門を出ようとすると、入れ違いに門を入ろうとして帰り掛ける私を見て、垣に寄添って躊躇している着流しの二人連れがあった。一人はデップリした下脹れの紳士で、一人はゲッソリ頬のこけた学生風であった。容・・・ 内田魯庵 「鴎外博士の追憶」
・・・その頃は電車のなかった時代だから、緑雨はお抱えの俥が毎次でも待ってるから宜いとしても、こっちはわざわざ高い宿俥で遠方まで出掛けるのは無駄だと思って、近所の安西洋料理にでも伴れて行こうもんなら何となく通人の権威を傷つけられたというような顔をし・・・ 内田魯庵 「斎藤緑雨」
・・・緑雨の車夫は恐らく主人を乗せて駈ける時間よりも待ってて眠る時間の方が長かったろう。緑雨は口先きばかりでなくて真実困っていたらしいが、こんな馬鹿げた虚飾を張るに骨を折っていた。緑雨と一緒に歩いた事も度々あったが、緑雨は何時でもリュウとした黒紋・・・ 内田魯庵 「斎藤緑雨」
・・・ 夕焼けのした晩方に、海の上を、電光がし、ゴロゴロと雷が鳴って、ちょうど馬車の駆けるように、黒雲がいくのが見られます。それを見ると、この町の人々は、「赤い姫君を慕って、黒い皇子が追っていかれる。」と、いまでも、いっているのでありまし・・・ 小川未明 「赤い姫と黒い皇子」
・・・ 夕焼けのした晩方に、海の上を、電光がし、ゴロゴロと雷が鳴って、ちょうど馬車の駆けるように、黒雲がいくのが見られます。それを見ると、この町の人々は、「赤い姫君を慕って、黒い皇子が追っていかれる。」と、いまでも、いっているのでありまし・・・ 小川未明 「赤い姫と黒い皇子」
・・・そして、この広い野原も縦横に駈けるであろう。」といって、くまは、かごの外の自然に憧れるのでした。「ああ、自由に放たれていて、しかも、羽すら持ちながら、それができないとは、なんという情けないことだ……。」と、くまは、はがゆがりました。汽車・・・ 小川未明 「汽車の中のくまと鶏」
・・・「僕は腹が痛いから、駆けることができない。」と、光治はいいました。「うそをつけ、腹なんか痛くないんだが、兵隊になるのがいやだから、そんなことをいうんだろう。よし、いやだなんかというなら、みんなでいじめるからそう思え。」「僕は・・・ 小川未明 「どこで笛吹く」
・・・「僕は腹が痛いから、駆けることができない。」と、光治はいいました。「うそをつけ、腹なんか痛くないんだが、兵隊になるのがいやだから、そんなことをいうんだろう。よし、いやだなんかというなら、みんなでいじめるからそう思え。」「僕は・・・ 小川未明 「どこで笛吹く」
・・・もっとも、彼が部下の顔へ痰をひっ掛けるのは、機嫌のわるい時に限っていた。が、彼には機嫌の良い時は殆んどなかったから、彼の不幸な部下の中で「蓄音機の痰壺」になることを免れた幸福な兵隊は一人もいなかった。 なお、彼は部下の顔を痰壺にする代り・・・ 織田作之助 「昨日・今日・明日」
出典:青空文庫