・・・さて今の文壇になってからは、宙外の如き抱月の如き鏡花の如き、予はただその作のある段に多少の才思があるのを認めたばかりで、過言ながらほとんど一の完璧をも見ない。新文学士の作に至っては、またまた過言ながら一の局部の妙をだに認めたことが無い。予は・・・ 森鴎外 「鴎外漁史とは誰ぞ」
・・・これが平生寡言沈黙の人たる博士が、天賦の雄弁を発揮する時である。そして博士に親しい人々、今夜この席に居残っているような人々は、いつもこういう時の来るのを楽み待っているのである。 博士は虚になった杯を、黙って児髷の子の前に出して酒を注がせ・・・ 森鴎外 「里芋の芽と不動の目」
・・・どの車にも、軟い鼠色の帽の、鍔を下へ曲げたのを被った男が、馭者台に乗って、俯向き加減になっている。 不精らしく歩いて行く馬の蹄の音と、小石に触れて鈍く軋る車輪の響とが、単調に聞える。 己は塔が灰色の中に灰色で画かれたようになるまで、・・・ 森鴎外 「沈黙の塔」
・・・「好え加減にしとけ。」 秋三は立ち上った。「おい、頼む頼む。お母に一寸云うてくれったら。」 秋三はそのまま黙って柴を担ごうとすると、「お前とこ、俺とこの母屋やないか、頼むで置かしてくれよ。」と安次は云った。「俺とこが・・・ 横光利一 「南北」
・・・しかし僕はあなたが聞いて下さるからッて、好気になって、際限もなく話しをしていたら、退屈なさるでしょうから、いい加減にしますが、モ一ツ切り話しましょう。僕はこの時の事が悲しいといえば実に何ともいえないほど悲しいんですが、またどことなく嬉しいよ・・・ 若松賤子 「忘れ形見」
・・・湯加減のいい湯に全身を浸しているような具合に、私の心はある大きい暖かい力にしみじみと浸っていました。私はただ無条件に、生きている事を感謝しました。すべての人をこういう融け合った心持ちで抱きたい、抱かなければすまない、と思いました。私は自分に・・・ 和辻哲郎 「ある思想家の手紙」
出典:青空文庫