・・・ほんとに運が悪いとなると、あの片目の雌鴨みたいなのさえ居るんだからなあ。「片目のって? どんなんだって? 第一そんなのと私共一緒に居た事があったかしらん。「ほらお前もう忘れたの? ついこないだまで一緒に居たじゃないか、あのうんと大き・・・ 宮本百合子 「一条の繩」
・・・白い縫い模様のある襟飾りを着けて、糊で固めた緑色のフワフワした上衣で骨太い体躯を包んでいるから、ちょうど、空に漂う風船へ頭と両手両足をつけたように見える。 これらの仲間の中には繩の一端へ牝牛または犢をつけて牽いてゆくものもある。牛のすぐ・・・ 著:モーパッサン ギ・ド 訳:国木田独歩 「糸くず」
・・・杉の生垣の切れた処に、柴折戸のような一枚の扉を取り付けた門を這入ると、土を堅く踏み固めた、広い庭がある。穀物を扱う処である。乾き切った黄いろい土の上に日が一ぱいに照っている。狭く囲まれた処に這入ったので、蝉の声が耳を塞ぎたい程やかましく聞え・・・ 森鴎外 「カズイスチカ」
・・・糸を縒っているのは、片目の老処女で、私の所で女中が宿に下がった日には、それが手伝に来てくれるのであった。 或る日役所から帰って、机の上に読みさして置いてあった Wundt の心理学を開いて、半ペエジばかり読んだが、気乗がせぬので止めた。・・・ 森鴎外 「二人の友」
・・・背の高い、色の白い、目鼻立ちの立派な兄文治と、背の低い、色の黒い、片目の弟仲平とが、いかにも不吊合いな一対に見えたからである。兄弟同時にした疱瘡が、兄は軽く、弟は重く、弟は大痘痕になって、あまつさえ右の目がつぶれた。父も小さいとき疱瘡をして・・・ 森鴎外 「安井夫人」
・・・ よもやと思い固めたことが全く違ッてしまったことゆえ、今さら母も仰天したが、さすがにもはや新田のことよりは夫や聟の身の上が心配の種になッて来た。「さてはその時に民部たちは」「そのこと、まことそのことにおじゃるわ。おれがこれから鎌・・・ 山田美妙 「武蔵野」
・・・鼻先から出る道徳に塗り固められて何事も心臓でもって理解することができず、また何事も心臓から出て行為することのできない、死人のような人間です。ゲエテも言ったように、迷うということは生きる証拠です。道義の力は迷った後にほんとうに理解せられる。ま・・・ 和辻哲郎 「すべての芽を培え」
出典:青空文庫