・・・詳細な事実は確かでないが、なんでもさるかに合戦の話に出て来るさるが資本家でかにが労働者だということになっており、かにの労働によって栽培した柿の実をさる公が横領し搾取することになるそうである。なるほどそう言えば、そうも言われるかもしれない。し・・・ 寺田寅彦 「さるかに合戦と桃太郎」
・・・彼の母はそれを見兼ねて枳の実を拾って来て其塞った鼻の孔へ押し込んでは僅かに呼吸の途をつけてやった。それは霜が木の葉を蹴落す冬のことであった。枳の木は竹藪の中に在った。黄ばんだ葉が蒼い冴えた空から力なさ相に竹の梢をたよってはらはらと散る。竹は・・・ 長塚節 「太十と其犬」
・・・これより朝日新聞社員として、筆を執って読者に見えんとする余が入社の辞に次いで、余の文芸に関する所信の大要を述べて、余の立脚地と抱負とを明かにするは、社員たる余の天下公衆に対する義務だろうと信ずる。 私はまだ演説ということをあまり・・・ 夏目漱石 「文芸の哲学的基礎」
・・・明日食われるか明後日食われるかあるいはまた十年の後に食われるか鬼よりほかに知るものはない。この門に横付につく舟の中に坐している罪人の途中の心はどんなであったろう。櫂がしわる時、雫が舟縁に滴たる時、漕ぐ人の手の動く時ごとに吾が命を刻まるるよう・・・ 夏目漱石 「倫敦塔」
・・・ 冬中いつも唇が青ざめて、がたがたふるえていた阿部時夫などが、今日はまるでいきいきした顔いろになってにかにかにかにか笑っています。ほんとうに阿部時夫なら、冬の間からだが悪かったのではなくて、シャツを一枚しかもっていなかったのです。それに・・・ 宮沢賢治 「イーハトーボ農学校の春」
・・・ 俄かに戸があいて、赤い毛布でこさえたシャツを着た若い血色のいい男がはいって来ました。 みんなは一ぺんにそっちを見ました。 その男は、黄いろなゴムの長靴をはいて、脚をきちんとそろえて、まっすぐに立って云いました。「農夫長の宮・・・ 宮沢賢治 「耕耘部の時計」
・・・し見て生あるものやがては我手に落ち来るを知りて 嘲笑う――重き夜の深き眠りややさめて青白き暁光の宇宙の一端に生るれば死はいずこかの片すみにかがまりてひややかに見にくき姿をかくす死のひそむ宇宙・・・ 宮本百合子 「片すみにかがむ死の影」
・・・ 私に守られつつ大火輪はしずかに眠りに入った。 草の葉は溜息をつき森の梢は身ぶるって夜の迫るのを待つ。 四辺には灰色と歎いと怨がみちて居る―― けれ共私は―― ひややかにがんこな夜はせまって宇宙は涙ぐむ――けれ共私は――・・・ 宮本百合子 「小鳥の如き我は」
・・・ 賑やかに話しながら近づいて来る。 小鳥が群がって囀るような声である。 皆子供に違ない。女の子に違ない。「早くいらっしゃいよ。いつでもあなたは遅れるのね。早くよ」「待っていらっしゃいよ。石がごろごろしていて歩きにくいので・・・ 森鴎外 「杯」
・・・どんなに烈しい内容を取り扱われる場合でも、いかにも淡々として、透明な感じを与える。わたくしはこの透明さが表現の極致ではないかと考えている。ちょうど無色透明で歪みのない窓ガラスが外の景色を最も鮮やかに見せてくれるように、表現の透明さは作者の現・・・ 和辻哲郎 「歌集『涌井』を読む」
出典:青空文庫