・・・そして誠忠奉公の公卿たちは鎌倉で審議するという名目の下に東海道の途次で殺されてしまった。かくて政権は確実に北条氏の掌中に帰し、天下一人のこれに抗議する者なく、四民もまたこれにならされて疑う者なき有様であった。後世の史家頼山陽のごときは、「北・・・ 倉田百三 「学生と先哲」
・・・細なものまでを勘定すれば百部二百部ではきかぬのでありますが、その中で髄脳であり延髄であり脊髄であるところの著述は、皆当時の実社会に対して直接な関係は有して居りませぬので、皆異なった時代――足利時代とか鎌倉時代とか大内氏頃とか、最も近くても数・・・ 幸田露伴 「馬琴の小説とその当時の実社会」
・・・ 流布本太平記巻三十六、細川相模守清氏叛逆の事を記した段に、「外法成就の志一上人鎌倉より上つて」云とある。神田本同書には、「此志一上人はもとより邪天道法成就の人なる上、近頃鎌倉にて諸人奇特の思をなし、帰依浅からざる上、畠山入道諸事深く信・・・ 幸田露伴 「魔法修行者」
・・・星野天知君は、その後鎌倉の方へ引き込まれた北村君から、その山羊を引き取った事がある。そして「どうも北村君には一杯嵌められました。子供をお腹に持っているというから、その積りで引き取ったら、子供があるんではなかった」と私に話して、笑った事があっ・・・ 島崎藤村 「北村透谷の短き一生」
・・・ 皇族の方々のおんうち、東京でおやしきがお焼けになった方もおありになりましたが、でも幸にいずれもおけがもなくておすみになりましたが、鎌倉では山階宮妃佐紀子女王殿下が御圧死になり、閑院宮寛子女王殿下が小田原の御用邸の倒かいで、東久邇宮師正・・・ 鈴木三重吉 「大震火災記」
・・・百種にあまる色さまざまの計画が両国の花火のようにぱっとひらいては消え、ひらいては消え、これときまらぬままに、ふらふら鎌倉行の電車に乗った。今夜、死ぬのだ。それまでの数時間を、私は幸福に使いたかった。ごっとん、ごっとん、のろすぎる電車にゆられ・・・ 太宰治 「狂言の神」
・・・ ――そうなんです。鎌倉の海に薬品を呑んで飛びこみました。言い忘れましたが、この女は、なかなかの知識人で、似顔絵がたいへん巧かった。心が高潔だったので、実物よりも何層倍となく美しい顔を画き、しかもその画には秋風のような断腸のわびしさがに・・・ 太宰治 「虚構の春」
・・・ 明治三十五年の夏の末頃逗子鎌倉へ遊びに行ったときのスケッチブックが今手許に残っている。いろいろないたずら書きの中に『明星』ばりの幼稚な感傷的な歌がいくつか並んでいる。こういう歌はもう二度と作れそうもない。当時二十五歳大学の三年生になっ・・・ 寺田寅彦 「海水浴」
・・・都市というものの発達するに恰好な条件を具えていて、しかもそれが極めて小規模な地形であるのは面白いと思われた。鎌倉やまたこの平泉などのこうした地形を見ると、昔の日本の人口の少なかった程度が推測されるような気がするのである。昔のこれらの都市の面・・・ 寺田寅彦 「札幌まで」
・・・世間ではまだ鎌倉あたりへ別荘を建てて子弟の遊場をつくるような風習がなかった。尋常中学へ這入って一、二年過ぎた頃かと思う。季節が少し寒くなりかかると、泳げないから浅草橋あたりまで行って釣舟屋の舟を借り、両国から向嶋、永代から品川の砲台あたりま・・・ 永井荷風 「向島」
出典:青空文庫