・・・短い期間ではあったが、男は殉教者のそれとかわらぬ辛苦を嘗めた。風にさからい、浪に打たれ、雨を冒した。この艱難だけは、信頼できる。けれども、もともと絶望の行為である。おれは滅亡の民であるという思念一つが動かなかった。早く死にたい願望一つである・・・ 太宰治 「花燭」
・・・ こんな経緯で、私の家にもラジオというものが、そなわったけれども、私は相かわらず、あちこち、あちこちなので、しみじみ聴取した事は、ほとんど無いのである。たまに私の作品が放送せられる時でも、私は、うっかり聞きのがす。 つまり、一言にし・・・ 太宰治 「家庭の幸福」
・・・ハクランカイをごらんなさればよろしいに、と南国訛りのナポレオン君が、ゆうべにかわらぬ閑雅の口調でそうすすめて、にぎやかの万国旗が、さっと脳裡に浮んだが、ばか、大阪へ行く、京都へも行く、奈良へも行く、新緑の吉野へも行く、神戸へ行く、ナイヤガラ・・・ 太宰治 「狂言の神」
・・・「ここは、ちっとも、かわらんな。」幸吉は、私と卓を挾んで坐ってから、天井を見上げたり、ふりかえって欄間を眺めたり、そわそわしながら、そんなことを呟いて、「おや、床の間が少し、ちがったかな?」 それから私の顔を、まっすぐに見て、にこに・・・ 太宰治 「新樹の言葉」
・・・魚容はそのよごれ物をかかえて裏の河原におもむき、「馬嘶て白日暮れ、剣鳴て秋気来る」と小声で吟じ、さて、何の面白い事もなく、わが故土にいながらも天涯の孤客の如く、心は渺として空しく河上を徘徊するという間の抜けた有様であった。「いつまでもこ・・・ 太宰治 「竹青」
・・・世人がこぞって私を憎み嘲笑していても、その先輩作家だけは、始終かわらず私の人間をひそかに支持して下さった。私は、その貴い信頼にも報いなければならぬ。やがて、「姥捨」という作品が出来た。Hと水上温泉へ死にに行った時の事を、正直に書いた。之は、・・・ 太宰治 「東京八景」
・・・おのれの生涯の不幸が、相かわらず鉄のようにぶあいそに膠着している状態を目撃して、あたしは、いつも、こうなんだ、と自分ながら気味悪いほどに落ちついた。 ドアの外で正服の警官がふたり見張りしていることをやがて知った。どうするつもりだろう。忌・・・ 太宰治 「火の鳥」
・・・よのなかに。かわらぬきみの。こころうれしき。○同二十五日。すみ寿。琴にて。かがりび。三へん。けいこいたす。 同断中略。○五月一日。とぞなりにける。さても、このせつわ、はを、いたむ。○同二日。あめふる。おり・・・ 太宰治 「盲人独笑」
・・・佐野君だけは、相かわらず悠々と、あの柳の木の下で、釣糸を垂れ、四季の風物を眺め楽しんでいる。あの令嬢と、また逢いたいとも思っていない様子である。佐野君は、そんなに好色な青年ではない。迂濶すぎるほどである。 三日間、四季の風物を眺め楽しみ・・・ 太宰治 「令嬢アユ」
・・・ この種の映画でよくある場面は一群の人間と他の一群の人間とが草原や川原で追いつ追われつする光景をいろいろの角度からとったものである。人間が蟻か何かのように妙にちょこちょこと動くのが滑稽でおもしろい。 千篇一律で退屈をきわめる切り合い・・・ 寺田寅彦 「映画雑感(3[#「3」はローマ数字、1-13-23])」
出典:青空文庫