・・・ 私は本多子爵が、今でこそ交際嫌いで通っているが、その頃は洋行帰りの才子として、官界のみならず民間にも、しばしば声名を謳われたと云う噂の端も聞いていた。だから今、この人気の少い陳列室で、硝子戸棚の中にある当時の版画に囲まれながら、こう云・・・ 芥川竜之介 「開化の良人」
・・・ 何しろ……胸さきの苦しさに、ほとんど前後を忘じたが、あとで注意すると、環海ビルジング――帯暗白堊、五階建の、ちょうど、昇って三階目、空に聳えた滑かに巨大なる巌を、みしと切組んだようで、芬と湿りを帯びた階段を、その上へなお攀上ろうとする・・・ 泉鏡花 「開扉一妖帖」
・・・この貴重な秘庫を民間奇特者に解放した一事だけでも鴎外のような学術的芸術的理解の深い官界の権勢者を失ったのは芸苑の恨事であった。 鴎外は早くから筆蹟が見事だった。晩年には益々老熟して蒼勁精厳を極めた。それにもかかわらず容易に揮毫の求め・・・ 内田魯庵 「鴎外博士の追憶」
・・・ 休憩の時間を残しながら席に帰った私は、すいた会場のなかに残っている女の人の顔などをぼんやり見たりしながら、心がやっと少しずつ寛解して来たのを覚えていた。しかしやがてベルが鳴り、人びとが席に帰って、元のところへもとの頭が並んでしまうと、・・・ 梶井基次郎 「器楽的幻覚」
・・・ 思わず、一言、私は批評めいた感懐を述べたくなるが、しかし、読者の鑑賞を、ただ一面に固定させる事を私は極度におそれる。何も言うまい。ゆっくり何度も繰りかえして読んで下さい。いい芸術とは、こんなものなのだから。 昭和二十二年、晩秋。・・・ 太宰治 「『井伏鱒二選集』後記」
・・・括弧の中は、速記者たる私のひそかな感懐である。 さて、きょうは、何をお話いたしましょうかな。何も別にお話する程の珍らしい事もございませぬが、本当に、いつもいつも似たような話で、皆様もうんざりしたでございましょうから、きょうは一つ、山・・・ 太宰治 「黄村先生言行録」
・・・私にとっては、その間に様々の思い出もあり、また自身の体験としての感懐も、あらわにそれと読者に気づかれ無いように、こっそり物語の奥底に流し込んで置いた事でもありますから、私一個人にとっては、之は、のちのちも愛着深い作品になるのではないかと思っ・・・ 太宰治 「女の決闘」
・・・高尚ノ美ヲ蔵シ居ルコト観破仕リ、以来貴作ヲ愛読シ居ル者ニテ、最近、貴殿著作集『晩年』トヤラム出版ノオモムキ聞キ及ビ候ガ御面倒ナガラ発行所ト如何ナル御作、集録致サレ候ヤ、マタ、貴殿ノ諸作ニ対スル御自身ノ感懐ヲモ御モラシ被下度伏シテ願上候。御返・・・ 太宰治 「虚構の春」
・・・私は少したべすぎたのに気がついて、そんなてれ隠しの感懐を述べた。「そうでしょうか。」女中さんは、さっきから窮屈がっているようである。「お茶をいただきましょう。」「お粗末さまでした。」「いや。」 私は、さむらいのようである・・・ 太宰治 「佐渡」
・・・そのおもな原因は日本が大陸の周縁であると同時にまた環海の島嶼であるという事実に帰することができるようである。もっともこの点では英国諸島はきわめて類似の位置にあるが、しかし大陸の西側と東側とでは大気ならびに海流の循環の影響でいろいろな相違のあ・・・ 寺田寅彦 「日本人の自然観」
出典:青空文庫