・・・(右の方に向き、耳を聳何だか年頃聞きたく思っても聞かれなかった調ででもあるように、身に沁みて聞える。限なき悔のようにもあり、限なき希望のようにもある。この古家の静かな壁の中から、己れ自身の生涯が浄められて流れ出るような心持がする。譬えば母と・・・ 著:ホーフマンスタールフーゴー・フォン 訳:森鴎外 「痴人と死と」
・・・袖もたちまちかわきぬべう思はるれば、この新しき井の号を袖干井とつけて濡しこし妹が袖干の井の水の涌出るばかりうれしかりける 家に婢僕なく、最合井遠くして、雪の朝、雨の夕の小言は我らも聞き馴れたり。「独楽どくらくぎん」と・・・ 正岡子規 「曙覧の歌」
・・・あまあがりや、風の次の日、そうでなくてもお天気のいい日に、畑の中や花壇のかげでこんなようなさらさらさらさら云う声を聞きませんか。「おい。ベッコ。そこん処をも少しよくならして呉れ。いいともさ。おいおい。ここへ植えるのはすずめのかたびらじゃ・・・ 宮沢賢治 「カイロ団長」
・・・ 秋田、山形辺は、食糧危機がひどくなってから、主食買い出しの全国的基地となって来ている。私の乗っている汽車にも、きっとそういう用事で出て来ている各地の旅客がいただろう。その人々は、この一望果てない青田を見て、そこに白く光った白米の粒々を・・・ 宮本百合子 「青田は果なし」
・・・刑法で姦通罪において婦人には手落だった過酷さが改正されたとしても、私たちの日々の生活のなかの現実で経済危機が、市民生活のモラルの根柢をゆすぶっているとき、刑法の改正だけで人民の堕落と悲劇とはなくならない。 職場の組合の中では、この問題が・・・ 宮本百合子 「明日をつくる力」
・・・ この願いとその実現のための努力とは、それからのち、三十年に亙る様々の変転、種々の困難と危機とを通じて今日までつづけられている。その間に、日本の社会は幾変転し、大衆の歴史は前進した。その歴史の歩みが、「貧しき人々の群」の作者をも成長させ・・・ 宮本百合子 「あとがき(『宮本百合子選集』第一巻)」
・・・一月ごとにその程度と範囲が際限なくひろがって、客観的に公平に、国際問題や経済、政治問題をとり扱った内容さえ忌諱にふれた。日本のなかに、客観的な真実、学問上の真理、生活の現実を否定して、日本民族の優秀性と、侵略的大東亜主義を宣伝する文筆だけが・・・ 宮本百合子 「あとがき(『宮本百合子選集』第五巻)」
・・・ アレゴリーの従来の利用価値は、いろいろあったにしろ、一部の事実として聞きてに聞きて自身や話の中の人物の階級性なんかまで考えさせずに、いいたいことをスラスラいって聞かせるというところにあったことは確だ。 だから、その中に現れてくる主・・・ 宮本百合子 「新たなプロレタリア文学」
・・・これらの人々の顔ぶれの世俗的に賑やかな体面上からも、日本の文学が瀕している危機にたいして黙っていられないはずであろうと思えた。こちらからの話があれば、文芸家協会の議題にのぼることなのだろうか。 光線のたりないその事務室で、正直な某氏は、・・・ 宮本百合子 「ある回想から」
・・・ 一応は和気藹々たるその光景は、主人公がほかならぬ画家であるということから、むしろ異様に孤独に、鬼気さえもはらんで忘れがたい感銘を与えられた。 芸術の道をゆくとき、画家にとって道づれは、今こうやってテーブルに何か雑然と無意味な賑やか・・・ 宮本百合子 「或る画家の祝宴」
出典:青空文庫