・・・寺院の北側をロッカ・マジョーレの方に登る阪を、一つの集団となってよろけながら、十五、六人の華車な青年が、声をかぎりに青春を讃美する歌をうたって行くのだった。クララはこの光景を窓から見おろすと、夢の中にありながら、これは前に一度目撃した事があ・・・ 有島武郎 「クララの出家」
・・・ 舟のゆくはるかのさき湖水の北側に二、三軒の家が見えてきた。霧がほとんど山のすそまでおりてきて、わずかにつつみのこした渚に、ほのかに人里があるのである。やがて霧がおおいかくしそうなようすだ。予は高い声で、「あそこはなんという所かい」・・・ 伊藤左千夫 「河口湖」
・・・池の北側の小路を渚について七、八町廻れば養安寺村である。追いつ追われつ、草花を採ったり小石を拾って投げたり、蛇がいたと言っては三人がしがみ合ったりして、池の岸を廻ってゆく。「省さん、蛇王様はなで皹の神様でしょうか」「なでだか神様のこ・・・ 伊藤左千夫 「春の潮」
・・・ そのとき、ひとり隣に並んで腰をかけている北川だけは、笑いもしなければ、じっとしてまゆひとつ動かさず、まじめにきいていました。小田は、心の中で、彼の態度をありがたく思ったのです。 小田のお父さんは、もう死んでしまって、ありませんでし・・・ 小川未明 「笑わなかった少年」
・・・もしそうとすればK君のいわゆる一尺ないし二尺の影は北側といってもやや東に偏した方向に落ちるわけで、K君はその影を追いながら海岸線を斜に海へ歩み入ったことになります。 K君は病と共に精神が鋭く尖り、その夜は影がほんとうに「見えるもの」にな・・・ 梶井基次郎 「Kの昇天」
・・・ 宗保が、揺れる薪の上からおりて来ると、三人は、スパイが居眠りをしているのとは反対の北側へ集った。そして、家のようなうず高い薪の堆積にぐいと力を入れた。薪は、なだれのように、居眠りをしている×××の頭上を××××、××した。ぐしゃッと人・・・ 黒島伝治 「鍬と鎌の五月」
・・・戸を埋めた。北側の屋根には一尺ほども消えない雪が残った。鶏の声まで遠く聞えて、何となくすべてが引被らせられたように成った。灰色の空を通じて日が南の障子へ来ると、雪は光を含んでギラギラ輝く。軒から垂れる雫の音は、日がな一日単調な、侘しい響を伝・・・ 島崎藤村 「岩石の間」
・・・鏡は金粉を塗った額縁に収められているのである。北側の入口には赤と黒との縞のよごれたモスリンのカアテンがかけられ、そのうえの壁に、沼のほとりの草原に裸で寝ころんで大笑いをしている西洋の女の写真がピンでとめつけられていた。南側の壁には、紙の風船・・・ 太宰治 「逆行」
・・・いや、この前、北川冬彦氏から五六行の葉書を貰った時だけです。然し、ほんとうは、生れてはじめて、こんな長い手紙かいた。もう、ねましょう。シェストフでも読みましょう。どうか/\/\/\/\/\/\/\/\/\/\/\どうか、どうか、御手紙下さい・・・ 太宰治 「虚構の春」
・・・そろそろ八が岳の全容が、列車の北側に、八つの峯をずらりとならべて、あらわれる。笠井さんは、瞳をかがやかしてそれを見上げる。やはり、よい山である。もはや日没ちかく、残光を浴びて山の峯々が幽かに明るく、線の起伏も、こだわらずゆったり流れて、人生・・・ 太宰治 「八十八夜」
出典:青空文庫