・・・巡査が切符を買って乗せてやるって、だから誰かに言っちゃいけないって……今にここへ来て買ってやるから待っておれって」 小僧はこう言ったが、いかにもそわそわしていて、耕吉の傍から離れたい風だったので、「そうか、それはよかった。……これでパン・・・ 葛西善蔵 「贋物」
・・・私は子供のときから、猫の耳というと、一度「切符切り」でパチンとやってみたくて堪らなかった。これは残酷な空想だろうか? 否。まったく猫の耳の持っている一種不可思議な示唆力によるのである。私は、家へ来たある謹厳な客が、膝へあがって来た仔猫の・・・ 梶井基次郎 「愛撫」
・・・変な切符切りがはじまった。女の子の差し出した手を、その男の児がやけに引っ張る。その女の子は地面へ叩きつけられる。次の子も手を出す。その手も引っ張られる。倒された子は起きあがって、また列の後ろへつく。 見ているとこうであった。男の児が手を・・・ 梶井基次郎 「城のある町にて」
・・・ この時切符を売りはじめしかば、人々みな立ちて箱の前に集まりし時、外より男女二人の客、静かに入り来たりぬ。これ松本治子と田宮峰二郎なり。青年は切符を買いて治子に渡し、二人は人々に後れてプラットフォームの方に出で、人目を避くるごとく、かな・・・ 国木田独歩 「わかれ」
・・・そしてまたそれだけの金を持つており、自由に切符が買えて、そこへ帰つて行く人達の顔を見たいからなのだ。――私は、その人達が改札を出たり、入つたりする人達を見ている不思議にも深い色をもつた眼差しを決して見落すことは出来ない。 これはしかしこ・・・ 小林多喜二 「北海道の「俊寛」」
・・・行ってみて具合が悪いようだったらすぐ帰ろう、具合がいいようだったら一夏置いて貰って、小説を一篇書こう、そう思って居たのでありましたが、心ならずも三人の友人を招待してしまったので、私は、とにかく三島迄の切符を四枚買い、自信あり気に友人達を汽車・・・ 太宰治 「老ハイデルベルヒ」
・・・ どこへ行こうというあてもなく、駅のほうに歩いて行って、駅の前の露店で飴を買い、坊やにしゃぶらせて、それから、ふと思いついて吉祥寺までの切符を買って電車に乗り、吊皮にぶらさがって何気なく電車の天井にぶらさがっているポスターを見ますと、夫・・・ 太宰治 「ヴィヨンの妻」
・・・ 停留場の駅長が赤い回数切符を切って返した。この駅長もその他の駅夫も皆この大男に熟している。せっかちで、あわて者で、早口であるということをも知っている。 板囲いの待合所に入ろうとして、男はまたその前に兼ねて見知り越しの女学生の立って・・・ 田山花袋 「少女病」
・・・を一円とって還り路の切符を渡す。二十余年の昔、ヴェスヴィアスに登った時にも火口丘の上り口で「税」をとられた。その時はこの税の意味を考えたが遂に分からなかった。この峰の茶屋の税もやはり不思議な税の一つである。あとで聞くとこれは箱根土地株式会社・・・ 寺田寅彦 「浅間山麓より」
・・・何年ぶりかで久し振りに割引電車の赤い切符を手にした時に、それが自分の健康の回復を意味するシンボルのような気がした。御堀端にかかった時に、桃色の曙光に染められた千代田城の櫓の白壁を見てもそんな気がした。 日比谷で下りて公園の入り口を見やっ・・・ 寺田寅彦 「雑記(1[#「1」はローマ数字、1-13-21])」
出典:青空文庫