・・・ 神山は金口を耳に挟みながら、急に夏羽織の腰を擡げて、そうそう店の方へ退こうとした。その途端に障子が明くと、頸に湿布を巻いた姉のお絹が、まだセルのコオトも脱がず、果物の籠を下げてはいって来た。「おや、お出でなさい。」「降りますの・・・ 芥川竜之介 「お律と子等と」
・・・しかしペップは何も言わずに金口の巻煙草に火をつけていました。すると今までひざまずいて、トックの創口などを調べていたチャックはいかにも医者らしい態度をしたまま、僕ら五人に宣言しました。(実はひとりと四匹「もう駄目です。トック君は元来胃病で・・・ 芥川竜之介 「河童」
・・・いや、こりゃ失礼。禁句禁句金看板の甚九郎だっけ。――お蓮さん。一つ、献じましょう。」 田宮は色を変えた牧野に、ちらりと顔を睨まれると、てれ隠しにお蓮へ盃をさした。しかしお蓮は無気味なほど、じっと彼を見つめたぎり、手も出そうとはしなかった・・・ 芥川竜之介 「奇怪な再会」
・・・が、それ等にも疲れた後、中村は金口に火をつけながら、ほとんど他人の身の上のようにきょうの出来事を話し出した。「莫迦だね、俺は。」 話しを終った中村はつまらなそうにこうつけ加えた。「ふん、莫迦がるのが一番莫迦だね。」 堀川は無・・・ 芥川竜之介 「早春」
・・・ 通り一遍の客ではなく、梅水の馴染で、昔からの贔屓連が、六七十人、多い時は百人に余る大一座で、すき焼で、心置かず隔てのない月並の会……というと、俳人には禁句らしいが、そこらは凡杯で悟っているから、一向に頓着しない。先輩、また友達に誘われ・・・ 泉鏡花 「燈明之巻」
・・・画家 (且つ傾き、且つ聞きつつ、冷静に金口煙草を燻お爺さん、煙草を飲むかね。人形使 いやもう、酒が、あか桶の水なれば、煙草は、亡者の線香でござります。画家 喫みたまえ。(真珠の飾のついたる小箱のまま、衝と出人形使 はッこれは・・・ 泉鏡花 「山吹」
・・・うすみどり色の外套にくるまった、その大学生は立ちどまり、ノオトから眼をはなさず、くわえていた金口の煙草をわれに与えた。与えてそのままのろのろと歩み去った。大学にもわれに匹敵する男がある。われはその金口の外国煙草からおのが安煙草に火をうつして・・・ 太宰治 「逆行」
・・・その家人と共に一家に眠食して団欒たる最中にも、時として禁句に触れらるることあれば、その時の不愉快は譬えんに物なし。無心の小児が父を共にして母を異にするの理由を問い、隣家には父母二人に限りて吾が家に一父二、三母あるは如何などと、不審を起こして・・・ 福沢諭吉 「日本男子論」
・・・私のとこのアーティストは、私の頭に、金口の瓶から香水をかけながら答えました。 それからアーティストは、私の顔をも一度よく拭って、それから戸口の方をふり向いて、「ちょっと見て呉れ。」と云いました。アーティストたちは、あるいは戸口に立ち・・・ 宮沢賢治 「ポラーノの広場」
・・・ 尾世川は売店に行き、いつもの朝日ではなく、今日は金口のアルマを買った。彼は藍子のかけている待合室のベンチの腕木にちょっと斜かいに腰かけ、片肱にステッキをかけ、派手な箱から一本その金口をぬき、さも旅立ちの前らしい面持ちで四辺を眺めながら・・・ 宮本百合子 「帆」
出典:青空文庫