・・・巌を削れる如く、棟広く柱黒き峯の茶屋に、木の根のくりぬきの火鉢を据えて、畳二畳にも余りなん、大熊の皮を敷いた彼方に、出迎えた、むすび髪の色白な若い娘は、唯見ると活けるその熊の背に、片膝して腰を掛けた、奇しき山媛の風情があった。 袖も靡く・・・ 泉鏡花 「栃の実」
・・・南海霊山の岩殿寺、奥の御堂の裏山に、一処咲満ちて、春たけなわな白光に、奇しき薫の漲った紫の菫の中に、白い山兎の飛ぶのを視つつ、病中の人を念じたのを、この時まざまざと、目前の雲に視て、輝く霊巌の台に対し、さしうつむくまで、心衷に、恭礼黙拝した・・・ 泉鏡花 「縷紅新草」
・・・二十八番の観音は、その境内にいと深くして奇しき窟あるを以て名高きところなれば、秩父へ来し甲斐には特にも詣らんかとおもいしところなり。いざとて左のかたの小き径に入る。枝路のことなれば闊からず平かならず、誰が造りしともなく自然と里人が踏みならせ・・・ 幸田露伴 「知々夫紀行」
・・・私はその青年と少女とのつつましい結婚式の描写を書き了えた。私は奇しきよろこびを感じつつ、冷たい寝床へもぐり込んだ。 眼がさめると、すでに午後であった。日は高くあがっていて、凧の唸りがいくつも聞えた。私はむっくり起きて、前夜の原稿を読み直・・・ 太宰治 「断崖の錯覚」
・・・脚にぶつぶつ鱗が生じて、からだをくねらせ二掻き、三掻き、かなしや、その身は奇しき人魚。そんな順序では無かろうかと思う。女は天性、その肉体の脂肪に依り、よく浮いて、水泳にたくみの物であるという。 教訓。「女性は、たしなみを忘れてはならぬ。・・・ 太宰治 「女人訓戒」
・・・天保十一年、竹琴を発明し、のち京に上りて、その製造を琴屋に命じたところが、琴屋のあるじの曰く、奇しき事もあるものかな。まさしく昨日なり、出雲の人にして中山といわるる大人が、まさしく同じ琴を造る事を命じたまいぬ、と。勾当は、ただちにその中山と・・・ 太宰治 「盲人独笑」
・・・ この花園の奇しき美の秘訣を問わば、かの花作りにして花なるひとり、一陣の秋風を呼びて応えん。「私たちは、いつでも死にます。」一語。二語ならば汚し。 花は、ちらばり乱れて、ひとつひとつ、咲き誇り、「生きて在るものを愛せよ」「おれは新し・・・ 太宰治 「もの思う葦」
・・・乾坤を照し尽す無量光埴の星さえ輝き初め我踏む土は尊や白埴木ぐれに潜む物の隈なく黄朽ち葉を装いなすは夜光の玉か神のみすまるか奇しき光りよ。常珍らなるかかる夜は燿郷の十二宮眼くるめく月の宮瑠璃・・・ 宮本百合子 「秋の夜」
・・・てかく低唱しつつ厚き帳のかなた身じろぐ夜の精を見んと行手すかしつつさぐり見るなり無限の闇の広き宙には乾坤の敗者の歎きと勝者の鬨の声と石棺の底より過去を叫ぶ亡霊のうごめき奇しき形に其の音波を伝えつつ闇に・・・ 宮本百合子 「夜」
出典:青空文庫