・・・ 沼地などの多い、土地の低い部分を埋めるために、その辺一帯の砂がところどころ刳り取られてあった。砂の崖がいたるところにできていた。釣に来たときよりは、浪がやや荒かった。「この辺でも海の荒れることがあるのかね」「それあありますとも・・・ 徳田秋声 「蒼白い月」
・・・しめやかなランプの光の下に、私は母と乳母とを相手に、暖い炬燵にあたりながら絵草紙錦絵を繰りひろげて遊ぶ。父は出入りの下役、淀井の老人を相手に奥の広間、引廻す六枚屏風の陰でパチリパチリ碁を打つ。折々は手を叩いて、銚子のつけようが悪いと怒鳴る。・・・ 永井荷風 「狐」
・・・前の方を繰りひろげて見ると日本人の姓名は一人もない。して見ると日本人でここへ来たのは余が始めてだなと下らぬ事が嬉しく感ぜられる。婆さんがこちらへと云うから左手の戸をあけて町に向いた部屋に這入る。これは昔し客間であったそうだ。色々なものが並べ・・・ 夏目漱石 「カーライル博物館」
・・・と女は右の手を高く挙げて広げたる掌を竪にランスロットに向ける。手頸を纏う黄金の腕輪がきらりと輝くときランスロットの瞳はわれ知らず動いた。「さればこそ!」と女は繰り返す。「薔薇の香に酔える病を、病と許せるは我ら二人のみ。このカメロットに集まる・・・ 夏目漱石 「薤露行」
・・・それから三人前後して濡れた石を踏みながら典座寮と書いた懸札の眼につく庫裡から案内を乞うて座敷へ上った。 老師に会うのは約二十年ぶりである。東京からわざわざ会いに来た自分には、老師の顔を見るや否や、席に着かぬ前から、すぐそれと解ったが先方・・・ 夏目漱石 「初秋の一日」
・・・門前から見るとただ大竹藪ばかり見えて、本堂も庫裏もないようだ。その御寺で毎朝四時頃になると、誰だか鉦を敲く」「誰だか鉦を敲くって、坊主が敲くんだろう」「坊主だか何だか分らない。ただ竹の中でかんかんと幽かに敲くのさ。冬の朝なんぞ、霜が・・・ 夏目漱石 「二百十日」
・・・ところが三重吉は是非御飼いなさいと、同じような事を繰り返している。うむ買うよ買うよとやはり頬杖を突いたままで、むにゃむにゃ云ってるうちに三重吉は黙ってしまった。おおかた頬杖に愛想を尽かしたんだろうと、この時始めて気がついた。 すると三分・・・ 夏目漱石 「文鳥」
・・・そう云った身拵えで、早稲田の奥まで来て下すって、例の講演は十一月の末まで繰り延ばす事にしたから約束通りやってもらいたいというご口上なのです。私はもう責任を逃れたように考えていたものですから実は少々驚ろきました。しかしまだ一カ月も余裕があるか・・・ 夏目漱石 「私の個人主義」
・・・そして樺の木はその時吹いて来た南風にざわざわ葉を鳴らしながら狐の置いて行った詩集をとりあげて天の川やそらいちめんの星から来る微かなあかりにすかして頁を繰りました。そのハイネの詩集にはロウレライやさまざま美しい歌がいっぱいにあったのです。そし・・・ 宮沢賢治 「土神ときつね」
・・・ 幾度も幾度も繰り返して、まるで、饑えた犬が、牛の骨をもらいでもした様にして見るので、銀地へ胡粉で小綺麗な兎を描き、昔の絵にある様な、樹だの鳥だのをあしらった表紙も、もう一体に薄墨をはいた様になってしまって居る。 そのぼやけた表紙か・・・ 宮本百合子 「栄蔵の死」
出典:青空文庫