・・・ その変に捩くれた万年筆を持った男が、帳簿を繰り繰り、九段にこんな家があるが、どうですね、少々権利があって面倒だが、などと云っている時であった。 格子の内に、白い夏服を着、丸顔で髪の黒い一人の外国人が入って来る。 そして、貸家が・・・ 宮本百合子 「思い出すこと」
・・・いろいろな気持など、その時分は到って漠然としていたのだが、それでもその旅行の計画の中には、バクー見学とドン・バス炭坑見学とだけは繰りいれられてあった。ドン・バスの方はその前年全ソヴェト同盟のみならず世界の注目をひいたドイツ技師を筆頭とする国・・・ 宮本百合子 「石油の都バクーへ」
・・・その中に入ると、歴史的現象は次々へ繰りひろげられているけれども、歴史的現象のその奥に横わっている筈の真の社会的条件の推移にまでふれては理解のてづるが与えられていないのが常だった。 日本文化史総論は、そういう世界史との横の感覚も常に保ちつ・・・ 宮本百合子 「世代の価値」
・・・そして、西村氏と姓を書いて、矢車のすこし変形したような紋がついている手桶を出させ、さて、一行は、庫裏のよこてから、井戸へゆくのだった。 いよいよ井戸へ向うことになると、子供たちは勇みたった。それは、もう牧田の牛が目のさきだからだった。け・・・ 宮本百合子 「道灌山」
・・・千呆禅師が天和二年に長崎の饑饉救済をしたという大釜の前に立って居ると、庫裡からひどく仇っぽさのある細君が吾妻下駄をからころ鳴して出て来た。龍宮造りの楼門のところで遊んで居る息子を頻りに呼ぶ。息子は来ず、労働服をつけた男が家に帰るらしく石段を・・・ 宮本百合子 「長崎の一瞥」
・・・私共は大庫裡の森とした土間に立って案内を乞うた。二声三声呼ぶと、ことこと階子を下りて来る子供の跫音がする。家庭的雰囲気を感じ、頬笑んだ我々の前に現われたのは、十ばかりの洋服を着た女の子、赤ちゃんを重そうに抱いている。その赤ちゃんが、居留地の・・・ 宮本百合子 「長崎の印象」
・・・ 女中が手を拭き拭き出て来て、雨戸を繰り開ける。外は相変らず、灰色の空から細かい雨が降っている。暑くはないが、じめじめとした空気が顔に当る。 女中は湯帷子に襷を肉に食い入るように掛けて、戸を一枚一枚戸袋に繰り入れている。額には汗がに・・・ 森鴎外 「あそび」
・・・同じモデルの写生を下手に繰り返されては、たまったものではない。ここらで省筆をするのは、読者に感謝して貰っても好い。 尤もきみ子はあの家の歴史を書いていなかった。あれを建てた緒方某は千住の旧家で、徳川将軍が鷹狩の時、千住で小休みをする度毎・・・ 森鴎外 「カズイスチカ」
・・・九郎右衛門は住持に、自分達の来たのを知らせてくれるなと口止をして、自分と文吉とは庫裡に隠れていた。住持はなぜかと問うたが、九郎右衛門は只「謀は密なるをとうとぶと申しますからな」と云ったきり、外の話にまぎらした。墓参に来たのは原田、桜井の女房・・・ 森鴎外 「護持院原の敵討」
・・・これは討手の群れが門外で騒いだとき、内陣からも、庫裡からも、何事が起ったかと、怪しんで出て来たのである。 初め討手が門外から門をあけいと叫んだとき、あけて入れたら、乱暴をせられはすまいかと心配して、あけまいとした僧侶が多かった。それを住・・・ 森鴎外 「山椒大夫」
出典:青空文庫