・・・、俳優だが、数年以前のこと、今の沢村宗十郎氏の門弟で某という男が、或夏の晩他所からの帰りが大分遅くなったので、折詰を片手にしながら、てくてく馬道の通りを急いでやって来て、さて聖天下の今戸橋のところまで来ると、四辺は一面の出水で、最早如何する・・・ 小山内薫 「今戸狐」
・・・浅間山が不気味な黒さで横たわり、その形がみるみるはっきりと泛びあがって来る。間もなく夜が明ける。 人影もないその淋しい一本道をすこし行くと、すぐ森の中だった。前方の白樺の木に裸電球がかかっている。にぶいその灯のまわりに、秋の夜明けの寂け・・・ 織田作之助 「秋の暈」
忘れもせぬ、其時味方は森の中を走るのであった。シュッシュッという弾丸の中を落来る小枝をかなぐりかなぐり、山査子の株を縫うように進むのであったが、弾丸は段々烈しくなって、森の前方に何やら赤いものが隠現見える。第一中隊のシード・・・ 著:ガールシンフセヴォロド・ミハイロヴィチ 訳:二葉亭四迷 「四日間」
・・・「出来ませんな、断じて出来るこっちゃありません!」 斯う呶鳴るように云った三百の、例のしょぼ/\した眼は、急に紅い焔でも発しやしないかと思われた程であった。で彼はあわてて、「そうですか。わかりました。好ござんす、それでは十日には・・・ 葛西善蔵 「子をつれて」
・・・兎に角お友達から来る手紙を待ちに待った様子で有りました。こんな訳で、内証言は一つも言えませんから、私は医師の宅まで出かけて本当の容態を聴こうと思いました。これは余程思切った事で、若し医師が駄目と言われたら何としようと躊躇しましたが、それでも・・・ 梶井久 「臨終まで」
・・・ 私はゴロッと仰向きに寝転んで、猫を顔の上へあげて来る。二本の前足を掴んで来て、柔らかいその蹠を、一つずつ私の眼蓋にあてがう。快い猫の重量。温かいその蹠。私の疲れた眼球には、しみじみとした、この世のものでない休息が伝わって来る。 仔猫よ・・・ 梶井基次郎 「愛撫」
・・・ 窓の戸を繰ると、あらたかな日の光が部屋一杯に射し込んだ。まぶしい世界だ。厚く雪を被った百姓家の茅屋根からは蒸気が濛々とあがっていた。生まれたばかりの仔雲! 深い青空に鮮かに白く、それは美しい運動を起こしていた。彼はそれを見ていた。・・・ 梶井基次郎 「雪後」
・・・ 折からこれも手拭を提げて、ゆるゆる二階を下り来るは、先ほど見たる布袋のその人、登りかけたる乙女は振り仰ぎて、おや父様、またお入浴りなさるの。幕なしねえ。と罪なげに笑う。笑顔の匂いは言わん方なし。 親子、国色、東京のもの、と辰弥は胸・・・ 川上眉山 「書記官」
・・・そしてかごの上に結んである緋縮緬のくけ紐をひねくりながら、「こんな紐なぞつけて来るからなおいけない、露見のもとだ、何よりの証拠だ」と、法科の上田がその四角の顔をさらにもっともらしくして言いますと、鷹見が、「しかし樋口には何よりこの紐がう・・・ 国木田独歩 「あの時分」
・・・もとより私といえども今日学生の社会的環境の何たるかを知らぬものではなく、その将来の見通しより来る憂鬱を解せぬものでもない。しかもそれにもかかわらず私は勧める。夢多く持て、若き日の感激を失うな。ものごとを物的に考えすぎるな。それは今の諸君の環・・・ 倉田百三 「学生と生活」
出典:青空文庫