・・・ 御主人は後の黒木の柱に、ゆっくり背中を御寄せになってから、寂しそうに御微笑なさいました。「女房も死ぬ。若も死ぬ。姫には一生会えぬかも知れぬ。屋形や山荘もおれの物ではない。おれは独り離れ島に老の来るのを待っている。――これがおれの今・・・ 芥川竜之介 「俊寛」
・・・が、やがて、大便を催したので、今度は御坊主黒木閑斎をつれて、湯呑み所際の厠へはいって、用を足した。さて、厠を出て、うすぐらい手水所で手を洗っていると突然後から、誰とも知れず、声をかけて、斬りつけたものがある。驚いて、振り返ると、その拍子にま・・・ 芥川竜之介 「忠義」
・・・流れに渡したる掛橋は、小柴の上に黒木を連ねて、おぼつかなげに藤蔓をからみつけたり。橋を渡れば山を切り開きて、わざとならず落しかけたる小滝あり。杣の入るべき方とばかり、わずかに荊棘の露を払うて、ありのままにしつらいたる路を登り行けば、松と楓樹・・・ 川上眉山 「書記官」
・・・「所天は黒木軍についているんだが、この方はまあ幸に怪我もしないようだ」「細君が死んだと云う報知を受取ったらさぞ驚いたろう」「いや、それについて不思議な話があるんだがね、日本から手紙の届かない先に細君がちゃんと亭主の所へ行っている・・・ 夏目漱石 「琴のそら音」
・・・このころ黒木孫右衛門というものが仲平に逢いに来た。もと飫肥外浦の漁師であったが、物産学にくわしいため、わざわざ召し出されて徒士になった男である。お佐代さんが茶を酌んで出しておいて、勝手へ下がったのを見て狡獪なような、滑稽なような顔をして、孫・・・ 森鴎外 「安井夫人」
出典:青空文庫