・・・博士ほどのお方が、えへへへと、それは下品な笑い声を発して、ぐっと頸を伸ばしてあたりの酔客を見廻しましたが、酔客たちは、格別相手になっては呉れませぬ。それでも博士は、意に介しなさることなく、酔客ひとりひとりに、はは、おのぞみどおり、へへへへ、・・・ 太宰治 「愛と美について」
・・・ふびんさに、右手でもってかず枝の左手をたぐり寄せ、そのうえに嘉七のハンチングをかぶせてかくし、かず枝の小さい手をぐっと握ってみたが、流石にかかる苦しい立場に置かれて在る夫婦の間では、それは、不潔に感じられ、おそろしくなって、嘉七は、そっと手・・・ 太宰治 「姥捨」
・・・腹の持主はぐっとも言わない。日本人のやる腹切りのようなわけだ。そしてぐいと引き廻して、腹の中へ包みを入れた。包みの中には例の襟が這入っているのである。三十九号の立襟である。一ダズン七ルウブルの中の二つである。それから腹の創口をピンで留めて、・・・ 著:ディモフオシップ 訳:森鴎外 「襟」
・・・を表象するような他のカットのそうにゅうで置換したらあの大切なクライマックスがぐっと引き立って来はしないかと思われる。 両国の花火のモンタージュがある。前にヤニングス主演の「激情のあらし」でやはり花火をあしらったのがあった。あの時は嫉妬に・・・ 寺田寅彦 「映画雑感(3[#「3」はローマ数字、1-13-23])」
・・・ 前句がそれ自身には平凡でも附句がいいと前句がぐっと活きて引立って来る。どんな平凡な句でもその奥底には色々ないいものの可能性が含まれている。それを握んで明るみへ引出して展開させるとそこからまた次に来る世界の胚子が生れる。 それをする・・・ 寺田寅彦 「断片(2[#「2」はローマ数字、1-13-22])」
・・・道太はそう言ってちょっと直しさえすれば、ぐっと引き立ってくるだろうと、そんな話をしかけた。「そんなことも考えるけれど、私のものでもないんですから」「誰のものなんだ」「いったん人手に渡ったのを、京ちゃんの旦那が買ったんです。あの人・・・ 徳田秋声 「挿話」
・・・その堪えがたき裏淋しさと退屈さをまぎらすせめてもの手段は、不可能なる反抗でもなく、憤怒怨嗟でもなく、ぐっとさばけて、諦めてしまって、そしてその平々凡々極まる無味単調なる生活のちょっとした処に、ちょっとした可笑味面白味を発見して、これを頓智的・・・ 永井荷風 「妾宅」
・・・鼻緒のゆるんでいるとこへ、十文位の大きな足をぐっと突込んで、いやに裾をぱっぱっとさせて外輪に歩くんだね。」「それから、君、イとエの発音がちがっていなくッちゃいけないぜ。電車の中で小説を読んでいるような女の話を聞いて見たまえ。まず十中の九・・・ 永井荷風 「十日の菊」
・・・西の空に見えた夕月がだんだん大きくなって東の空から蜀黍の垣根に出るようになって畑の西瓜もぐっと蔓を突きあげてどっしりと黄色な臀を据えた。西瓜は指で弾けば濁声を発するようになった。彼はそれを遠い市場に切り出した。昼間は壻の文造に番をさせて自分・・・ 長塚節 「太十と其犬」
・・・余は覚えず相馬焼の茶碗を取り上げて冷たき茶を一時にぐっと飲み干した。「注意せんといかんよ」と津田君は再び同じ事を同じ調子で繰り返す。瞳ほどな点が一段の黒味を増す。しかし流れるとも広がるとも片づかぬ。「縁喜でもない、いやに人を驚かせる・・・ 夏目漱石 「琴のそら音」
出典:青空文庫