・・・今その最も甚しきものを挙ぐれば、配偶者の趣味性行よりもむしろ配偶者の父母兄妹との交際についてである。姻戚の家に冠婚葬祭の事ある場合、これに参与するくらいの事は浮世の義理と心得て、わたくしもその煩累を忍ぶであろうが、然らざる場合の交際は大抵厭・・・ 永井荷風 「西瓜」
・・・と鷹の眼を後ろに投ぐれば、並びたる十二人は悉く右の手を高く差し上げつつ、「神も知る、罪は逃れず」と口々にいう。 ギニヴィアは倒れんとする身を、危く壁掛に扶けて「ランスロット!」と幽に叫ぶ。王は迷う。肩に纏わる緋の衣の裏を半ば返して、右手・・・ 夏目漱石 「薤露行」
昨日は失敬。こう続けざまに芝居を見るのは私の生涯において未曾有の珍象ですが、私が、私に固有な因循極まる在来の軌道をぐれ出して、ちょっとでも陽気な御交際をするのは全くあなたのせいですよ。それにも飽き足らず、この上相撲へ連れて・・・ 夏目漱石 「虚子君へ」
・・・一例を挙ぐれば、マコーレーの文章などによくある in spite of の如きはそれだ。意味から云えば、二つとか、三つとか、もしくば四つとかで充分であるものを、音調の関係からもう一つ云い添えるということがある。併し意味は既に云い尽してあるし・・・ 二葉亭四迷 「余が翻訳の標準」
・・・見あぐれば千仞の谷間より木を負うて下り来る樵夫二人三人のそりのそりとものも得言わで汗を滴らすさまいと哀れなり。 樵夫二人だまつて霧をあらはるゝ 樵夫も馬子も皆足を茶屋にやすむればそれぞれにいたわる婆様のなさけ一椀の渋茶よりもなお・・・ 正岡子規 「旅の旅の旅」
・・・そのうち数首を挙ぐれば牡丹散って打重なりぬ二三片牡丹剪って気の衰へし夕かな地車のとゞろとひゞく牡丹かな日光の土にも彫れる牡丹かな不動画く琢磨が庭の牡丹かな方百里雨雲よせぬ牡丹かな金屏のかくやくとして牡丹かな・・・ 正岡子規 「俳人蕪村」
・・・乾坤を照し尽す無量光埴の星さえ輝き初め我踏む土は尊や白埴木ぐれに潜む物の隈なく黄朽ち葉を装いなすは夜光の玉か神のみすまるか奇しき光りよ。常珍らなるかかる夜は燿郷の十二宮眼くるめく月の宮瑠璃・・・ 宮本百合子 「秋の夜」
・・・例えば、若いコムソモールの全生活が、すぐれたプロレタリア作家の作品の中に再現されないうちに、パンテレイモン・ロマノフやグミリョフスキーのような怪しげな作家たちが、「犬横丁」のような代物にまとめて売り出した。「犬横丁」は全部が嘘を書いてい・・・ 宮本百合子 「五ヵ年計画とソヴェトの芸術」
・・・ そこはい難いので夜だけ富士製紙のパルプをトラックにつんで運搬した、人足 そしたら内になり 足の拇指をつぶし紹介されて愛婦の封筒書きに入り居すわり六年法政を出る、「あすこへ入らなかったら本当の職工でぐれちゃったかもしれませんね」 ・・・ 宮本百合子 「SISIDO」
・・・いつもいつもゆうぐれにさえなりますれば、私の心に夕ばえのくもの様にさまざまないろとすがたのおもい出がわきますなかの一つが、とうとうこうやってふでをとらせたのでございます。 思いがけないあの長い長い私の手紙をうけとって、彼の人・・・ 宮本百合子 「ひととき」
出典:青空文庫