・・・「ちっとやそっとでいてくれりゃ好いが、――何しろこう云う景気じゃ、いつ何時うちなんぞも、どんな事になるか知れないんだから、――」 賢造は半ば冗談のように、心細い事を云いながら、大儀そうに食卓の前を離れた。それから隔ての襖を明けると、・・・ 芥川竜之介 「お律と子等と」
・・・ しかし牧野はいつまでも、その景気を保っていられなかった。犬は彼等が床へはいると、古襖一重隔てた向うに、何度も悲しそうな声を立てた。のみならずしまいにはその襖へ、がりがり前足の爪をかけた。牧野は深夜のランプの光に、妙な苦笑を浮べながら、・・・ 芥川竜之介 「奇怪な再会」
・・・…… この話は、たちまち幾百里の山河を隔てた、京畿の地まで喧伝された。それから山城の貉が化ける。近江の貉が化ける。ついには同属の狸までも化け始めて、徳川時代になると、佐渡の団三郎と云う、貉とも狸ともつかない先生が出て、海の向うにいる越前・・・ 芥川竜之介 「貉」
・・・普段ならば人々は見向きもしないのだが、畑作をなげてしまった農夫らは、捨鉢な気分になって、馬の売買にでも多少の儲を見ようとしたから、前景気は思いの外強かった。当日には近村からさえ見物が来たほど賑わった。丁度農場事務所裏の空地に仮小屋が建てられ・・・ 有島武郎 「カインの末裔」
・・・ その後にようやく景気が立ちなおってからも、一流の大家を除く外、ほとんど衣食に窮せざるものはない有様で、近江新報その他の地方新聞の続き物を同人の腕こきが、先を争うてほとんど奪い合いの形で書いた。否な独り同人ばかりでなく、先生の紹介によっ・・・ 泉鏡花 「おばけずきのいわれ少々と処女作」
・・・ ――まさか、そんな事はあるまい、まだ十時だ―― が、こうした事に、もの馴れない、学芸部の了簡では、会場にさし向う、すぐ目前、紅提灯に景気幕か、時節がら、藤、つつじ。百合、撫子などの造花に、碧紫の電燈が燦然と輝いて――いらっしゃい―・・・ 泉鏡花 「開扉一妖帖」
・・・道理であまり景気のいい料理店ではなかった。 僕が英語が出来るというので、僕の家の人を介して、井筒屋の主人がその子供に英語を教えてくれろと頼んで来た。それも真面目な依頼ではなく、時々西洋人が来て、応対に困ることがあるので、「おあがんなさい・・・ 岩野泡鳴 「耽溺」
・・・このころが、都もいちばんにぎやかな時分とみえて、去年の秋以来見なかった景気でございました。 うかうかとしているうちに、春も過ぎてしまいました。子供らがそれでも隠れてこのほりにときどき釣りなどにやってくる夏となりました。いままで、かもめは・・・ 小川未明 「馬を殺したからす」
・・・あれはいつだったっけ、何でも俺が船へ乗り込む二三日前だった、お前のところへ暇乞いに行ったら、お前の父が恐ろしく景気つけてくれて、そら、白痘痕のある何とかいう清元の師匠が来るやら、夜一夜大騒ぎをやらかしたあげく、父がしまいにステテコを踊り出し・・・ 小栗風葉 「深川女房」
・・・どうせ不景気な話だから、いっそ景気よく語ってやりましょう、子供のころでおぼえもなし、空想をまじえた創作で語る以上、できるだけおもしろおかしく脚色してやりましょうと、万事「下肥えの代り」に式で喋りました。当人にしかおもしろくないような子供のこ・・・ 織田作之助 「アド・バルーン」
出典:青空文庫