・・・竪川河岸を二つ目の方へ一町ばかり行くと、左官屋と荒物屋との間に挟まって、竹格子の窓のついた、煤だらけの格子戸造りが一軒ある――それがあの神下しの婆の家だと聞いた時には、まるでお敏と自分との運命が、この怪しいお島婆さんの言葉一つできまりそうな・・・ 芥川竜之介 「妖婆」
・・・そうしたらあんなに弱いおばあさまがだまったままで、いやというほどぼくをはらいのけたのでぼくはふすまのところまでけし飛ばされた。 火事なんだ。おばあさまが一人で消そうとしているんだ。それがわかるとおばあさま一人ではだめだと思ったから、ぼく・・・ 有島武郎 「火事とポチ」
・・・家計の困難を悲むようなら、なぜ富貴の家には生れ来ぬぞ……その時先生が送られた手紙の文句はなお記憶にある……其の胆の小なる芥子の如く其の心の弱きこと芋殻の如し、さほどに貧乏が苦しくば、安ぞ其始め彫ちょうい錦帳の中に生れ来らざりし。破壁・・・ 泉鏡花 「おばけずきのいわれ少々と処女作」
・・・ と、虫の声で、青蚯蚓のような舌をぺろりと出した。怪しい小男は、段を昇切った古杉の幹から、青い嘴ばかりを出して、麓を瞰下しながら、あけびを裂いたような口を開けて、またニタリと笑った。 その杉を、右の方へ、山道が樹がくれに続いて、木の・・・ 泉鏡花 「貝の穴に河童の居る事」
・・・斧と琴と菊模様の浴衣こそ菊枝をして身を殺さしめた怪しの衣、女が歌舞伎の舞台でしばしば姿を見て寐覚にも俤の忘られぬ、あこがるるばかり贔屓の俳優、尾上橘之助が、白菊の辞世を読んだ時まで、寝返りもままならぬ、病の床に肌につけた記念なのである。・・・ 泉鏡花 「葛飾砂子」
・・・雛芥子が散って実になるまで、風が誘うを視めているのだ。色には、恋には、情には、その咲く花の二人を除けて、他の人間はたいがい風だ。中にも、ぬしというものはな、主人というものはな、淵に棲むぬし、峰にすむ主人と同じで、これが暴風雨よ、旋風だ。一溜・・・ 泉鏡花 「紅玉」
・・・昔その唐の都の大道を、一時、その何でござりまして、怪しげな道人が、髪を捌いて、何と、骨だらけな蒼い胸を岸破々々と開けました真中へ、人、人という字を書いたのを掻開けて往来中駆廻ったげでござります。いつかも同役にも話した事でござりまするが、何の・・・ 泉鏡花 「朱日記」
・・・と見ると、怪し火は、何と、ツツツと尾を曳きつつ、先へ斜に飛んで、その大屋根の高い棟なる避雷針の尖端に、ぱっと留って、ちらちらと青く輝きます。 ウオオオオオ 鉄づくりの門の柱の、やがて平地と同じに埋まった真中を、犬は山を乗るように入り・・・ 泉鏡花 「雪霊続記」
・・・附馬牛の山男、閉伊川の淵の河童、恐しき息を吐き、怪しき水掻の音を立てて、紙上を抜け出で、眼前に顕るる。近来の快心事、類少なき奇観なり。 昔より言い伝えて、随筆雑記に俤を留め、やがてこの昭代に形を消さんとしたる山男も、またために生命あるも・・・ 泉鏡花 「遠野の奇聞」
・・・「ほってもねえ、いい人扶けして下せえましたよ。時に、はい、和尚様帰って、逢わっせえても、万々沙汰なしに頼みますだ。」 そこへ、丸太棒が、のっそり来た。「おじい、もういいか、大丈夫かよ。」「うむ、見せえ、大智識さ五十年の香染の・・・ 泉鏡花 「縷紅新草」
出典:青空文庫