・・・ 私は、一人の妻として計らずもこの事件の公判の傍聴者であり目撃者であった。一九四〇年春ごろから非転向の人たちだけの統一公判がはじまった。事件のあった時から足かけ八年目である。 転向を表明した人々の公判が分離して行われ、大泉兼蔵の公判・・・ 宮本百合子 「信義について」
・・・ところがあの事件で牢へまで入ることになったがあれの態度は公判のときもなかなか立派であった。牢へ入ろうが どうしようが、ゆるがぬ決心が見られた。これが私には分らぬ。御承知の通り、あれは中学をずっと一番で卒業した。大学でもよい方だった。あれだけ・・・ 宮本百合子 「一九二九年一月――二月」
・・・法学博士で大臣だった三土忠造でさえ、一九二九年か三〇年ごろ涜職事件で検挙投獄され、公判廷で奮闘して無罪を証明したあとで『幽囚記』という本をかいた。その中で政治的な事件の本質と、検事のとりしらべの強権にふれている。 三鷹事件が、多くの良識・・・ 宮本百合子 「それに偽りがないならば」
・・・帝政時代のロシアの裁判所の公判廷に、客を殺した一人の売笑婦として、カチューシャがひき出されて来る。貴族の陪審員として、偶然、その日の公判に臨席していたネフリュードフが、シベリア流刑を宣告されたそのカチューシャという売笑婦こそ、むかし若かった・・・ 宮本百合子 「動物愛護デー」
・・・六月。公判、懲役〔二〕年、執行猶予〔四〕年を言い渡された。予審と公判とを通じて私は文学の階級性を主張することができなかった。七月。保護観察所によって保護観察に附せられた。警視庁の特高課長であった毛利基が主事をしていた。毛利基は宮本の・・・ 宮本百合子 「年譜」
・・・ 十月十日 甘粕事件 公判開始 十月二十日 白菊の盛、蠅多き秋○国男折角来たのに「居たって何にもなりゃしない」 翌年 仕事をし始める。 四月十一日 伊太利亜の古陶、心の河、それをしまって野上さんのところへ・・・ 宮本百合子 「「伸子」創作メモ(二)」
・・・ 自立会へ行った翌々日、卓の上に飾っていた牧子からの白い小菊の水をとりかえていると、臥ている重吉が、彼の公判に関係のある古い書類を出すように云った。「在るんだろう?」「それはとってあるわ」 そう云いながら、余りしまいこんでい・・・ 宮本百合子 「風知草」
・・・したひとたちは、公判にでもでればすべて明らかになると信じて「一応自白」したのかも知れませんが、一般の人々はもっとしっかりしていたたよりになる指導者だとおもっていた労働者が、やりもしないことを「自白」したという態度そのものに疑問を感じたのは当・・・ 宮本百合子 「ふたつの教訓」
・・・昔は、何かの形で、当時としては発展的統一に向う過程の攪拌作用として生じていた。今日のプロレタリア文学内に包括されている諸要素は果して簡単に、プロレタリア文学の健全な発展のためにより多くの可能を齎すものであるとだけ云い得るかどうか。 プロ・・・ 宮本百合子 「プロ文学の中間報告」
・・・しかしそれは、志賀暁子の公判に検事が「女の一生」にふれたからではなくて、山本氏が氏としての誠意と研究とをもってこの社会に対している真実さが、読者とこの作者とを繋いでいるからである。スタイルだけのことではない。 作家も民衆の一人として・・・ 宮本百合子 「文学における今日の日本的なるもの」
出典:青空文庫