・・・ 長篇の今後の展開の中で主人公は共産主義者として行動し、そこには過去十数年間日本の人民の蒙った抑圧と戦争への狩り立て、党内スパイの挑発事件、公判闘争なども描かれます。このような作品は日本の労働者階級の文学に新しい局面をひらいているとい・・・ 宮本百合子 「文学について」
・・・それは赤く塗ってあり、甲板に鉄格子が出来ている。追放や苦役に決った囚人がそこに入れられて輸送されているのであった。舳先に歩哨の銃剣が燭火のように光っている。艀舟の中は静寂で月の光が豊かに濯いでいる。ゴーリキイは、昼間の疲れと景色の美しさに恍・・・ 宮本百合子 「マクシム・ゴーリキイの伝記」
・・・ 彼女は敦賀行汽船の最低甲板から海を眺めていた。海はあの埃をかぶったスレート屋根の色をしていた。タブ……タブ……物懶く海水が船腹にぶつかり、波間に蕪、木片、油がギラギラ浮いていた。彼方に、修繕で船体を朱色に塗りたくられた船が皮膚患者のよ・・・ 宮本百合子 「街」
・・・小蒸汽はキュー植物園で一日暮したが帰るに自動車を持たぬロンドン人を甲板に並べた椅子に満載している。白い手袋をはめさせられた女の子が椅子の上で日曜着の膝に落ちた煤煙をふき払った。河上は風がある。ウェストミンスタア橋に近づくと、河の水からやっと・・・ 宮本百合子 「ロンドン一九二九年」
・・・小西行長が肥後半国を治めていたとき、天草、志岐は罪を犯して誅せられ、柄本だけが残っていて、細川家に仕えた。 又七郎は平生阿部弥一右衛門が一家と心安くして、主人同志はもとより、妻女までも互いに往来していた。中にも弥一右衛門の二男弥五兵衛は・・・ 森鴎外 「阿部一族」
・・・彼が幕府に仕えて後半世紀、承応三年に石川丈山に与えて異学を論じた書簡がある。耶蘇は表面姿を消しているが、しかし異学に姿を変じて活躍している、あたかも妖狐の化けた妲己のようである、というのである。その文章は実に陰惨なヒステリックな感じを与える・・・ 和辻哲郎 「埋もれた日本」
・・・これは日本の神社のうちでも最も有名なものの一つである熊野権現の縁起物語であるから、その流布の範囲はかなり広汎であったと考えなくてはならない。ところでそこに語られているのは、熊野に今祀られている神々が、もとインドにおいてどういう経歴を経て来た・・・ 和辻哲郎 「埋もれた日本」
・・・すなわち享楽人はその享楽において広汎かつ強大な能力を持たなくてはならぬ。 享楽の対象は自然と人生の一切である。従って享楽はどの隅にもあり得る。しかし我々は金をためること、肉欲にふけることを無上の悦楽とする「高利貸的人間」が、広汎な享楽の・・・ 和辻哲郎 「享楽人」
・・・しかし後半生においては忠実な神の僕であった。ストリンドベルヒは自然主義の精神を最も明らかに体現した人である。しかし晩年には神と神の正義との熱心な信者であった。デカダンの詩人が最後に神に帰らなければならなかったことも人の知るところである。彼ら・・・ 和辻哲郎 「『偶像再興』序言」
・・・十九世紀後半が生んだ偉大なものは、たとえ自然主義のいい影響をうけていたにしても、決して自然主義的な本質を持ってはいなかった。そこには常に自然主義以上のものがあった。この事実は世界の精神潮流から非常に遅れていた最近のわが国の文化についても、厳・・・ 和辻哲郎 「「自然」を深めよ」
出典:青空文庫