・・・今日はある百姓の軒下、明日は木陰にくち果てた水車の上というようにどこという事もなく宿を定めて南へ南へとかけりましたけれども、容易に暖かい所には出ず、気候は一日一日と寒くなって、大すきな葦の言った事がいまさらに身にしみました。葦と別れてから幾・・・ 有島武郎 「燕と王子」
・・・ 森の木陰から朝日がさし込んできた。始めは障子の紙へ、ごくうっすらほんのりと影がさす。物の影もその形がはっきりとしない。しかしその間の色が最も美しい。ほとんど黄金を透明にしたような色だ。強みがあって輝きがあってそうして色がある。その色が・・・ 伊藤左千夫 「隣の嫁」
・・・この拗者の江戸の通人が耳の垢取り道具を揃えて元禄の昔に立返って耳の垢取り商売を初めようというと、同じ拗者仲間の高橋由一が負けぬ気になって何処からか志道軒の木陰を手に入れて来て辻談義を目論見、椿岳の浅草絵と鼎立して大に江戸気分を吐こうと計画し・・・ 内田魯庵 「淡島椿岳」
・・・日光の射さない、湿っぽい木蔭に、霧にぬれている姿は、道ばたの石の間から、伸び出て咲いている雪のような梅鉢草の花と共に、何となく深山の情趣を漂わせます。もとより、これを味うには、あまりに稀品とすべきでありましょう。・・・ 小川未明 「果物の幻想」
・・・ 急ぎて裏門を出でぬ、貴嬢はここの梅林を憶えたもうや、今や貴嬢には苦しき紀念なるべし、二郎には悲しき木陰となり、われには恐ろしき場処となれり。門を出ずれば角なる茶屋の娘軒先に立ちてさびしげに暮れゆく空をながめいしが、われを見て微かに礼な・・・ 国木田独歩 「おとずれ」
・・・ すると、一人の十二、三の少年が釣竿を持って、小陰から出て来て豊吉には気が付かぬらしく、こなたを見向きもしないで軍歌らしいものを小声で唱いながらむこうへ行く、その後を前の犬が地をかぎかぎお伴をしてゆく。 豊吉はわれ知らずその後につい・・・ 国木田独歩 「河霧」
・・・村の小川、海に流れ出る最近の川柳繁れる小陰に釣を垂る二人の人がある。その一人は富岡先生、その一人は村の校長細川繁、これも富岡先生の塾に通うたことのある、二十七歳の成年男子である。 二人は間を二三間隔てて糸を垂れている、夏の末、秋の初の西・・・ 国木田独歩 「富岡先生」
・・・背格好から歩きつきまで確かに武だと思ったが、彼は足早に過ぎ去って木陰に隠れてしまった。 この姿のおかげで老人は空々寂々の境にいつまでもいるわけにゆかなくなった。 甥の山上武は二三日前、石井翁を訪うて、口をきわめてその無為主義を攻撃し・・・ 国木田独歩 「二老人」
・・・eWith some old Border song, or catch,That suits a summer's noon.”の句も思いだされて、七十二歳の翁と少年とが、そこら桜の木蔭にでも坐っていないだろうかと見廻わし・・・ 国木田独歩 「武蔵野」
・・・ この時青年の目に入りしはかれが立てる橋に程近き楓の木陰にうずくまりて物洗いいたる女の姿なり。水に垂れし枝は女の全身を隠せどなおよくその顔より手先までを透かし見らる。横顔なれば定かに見分け難きも十八、九の少女なるべし、美しき腕は臂を現わ・・・ 国木田独歩 「わかれ」
出典:青空文庫