・・・ それやこれやで、私は、私自身、湖畔の或る古城に忍び入る戦慄の悪徳物語を、断念せざるを得なくなった。その古城には、オフェリヤに似た美しい孤独の令嬢もいるのだけれど。いまは一切を語らぬ。いい気になって、れいの調子づいて、微にいり細をうがっ・・・ 太宰治 「春の盗賊」
・・・ この主人公は名を杉田古城といって言うまでもなく文学者。若いころには、相応に名も出て、二、三の作品はずいぶん喝采されたこともある。いや、三十七歳の今日、こうしてつまらぬ雑誌社の社員になって、毎日毎日通っていって、つまらぬ雑誌の校正までし・・・ 田山花袋 「少女病」
・・・ ニュールンベルグの古城で、そこに収集された昔の物すごい刑具の類を見物した事がある。名高い「鉄の処女」の前で説明をしていた案内者はまだうら若い女であった。いったいに病身らしくて顔色も悪く、なんとなく陰気な容貌をしていた。見物人中の学生ふ・・・ 寺田寅彦 「案内者」
・・・ 翌日はレエゲンシタインの古城を見に行った。ただ一塊りの大きな岩山を切り刻んで出来たものである。何となしに鬼ヶ島を思わせた。囚虜を幽閉したという深い井戸のような穴があった。夜にでもなったら古い昔のドイツ戦士の幻影がこの穴から出て来て、風・・・ 寺田寅彦 「異郷」
・・・の貧しいコレクションの中には「シヨンの古城」があった。それからたしかルツェルンかチューリヒ湖畔の風景もあった。スイスの湖水と氷河の幻はそれから約二十年の間自分につきまとっていた。そうしてとうとう身親しくその地をおとずれる日が来たのであったが・・・ 寺田寅彦 「青衣童女像」
・・・名高い古城の片すみには昔の刑具を陳列した塔があります。色の青い小さい女が説明して歩く。いっしょに見て歩いた学生ふうの男がこの案内者に「お前さんのように毎日朝から晩まで身の毛のよだつような話を繰り返していてそれでなんともありませんか」と意地の・・・ 寺田寅彦 「先生への通信」
・・・ ナポリへ帰って、ポーシリッポの古城もただ外から仰いで見ただけで船へ帰ると、いろいろの物売りが来ていた。古めかしい油絵の額や、カメオや七宝の装飾品などが目についた。双眼鏡の四十シリングというのをT氏が十シリングにつけたら負けてよこした。・・・ 寺田寅彦 「旅日記から(明治四十二年)」
・・・百足山昔に変らず、田原藤太の名と共にいつまでも稚き耳に響きし事は忘れざるべし。湖上の景色見飽かざる間に彦根城いつしか後になり、胆吹山に綿雲這いて美濃路に入れば空は雨模様となる。大垣の商人らしき五十ばかりの男頻りに大垣の近況を語り関が原の戦を・・・ 寺田寅彦 「東上記」
・・・峠へ上って行く途中の新道からの湖上の眺めは誠に女車掌の説明のごとく又なく美しいものである。昔の東海道の杉並木の名残が、蛇行する自動車道路を直線的に切っているのが面白い。平野ではこれと反対に旧道の曲線を新道の直線で切っている場合が多いのである・・・ 寺田寅彦 「箱根熱海バス紀行」
・・・然しわたくしの知人で曾てこの地に卜居した者の言う所によれば、土地陰湿にして夏は蚊多く冬は湖上に東北の風を遮るものがないので寒気甚しくして殆ど住むに堪えないと云うことである。 不忍池の周囲は明治十六七年の頃に埋立てられて競馬場となった。一・・・ 永井荷風 「上野」
出典:青空文庫