・・・ 叔母は火箸を握ったまま、ぼんやりどこかへ眼を据えていた。「戸沢さんは大丈夫だって云ったの?」 洋一は叔母には答えずに、E・C・Cを啣えている兄の方へ言葉をかけた。「二三日は間違いあるまいって云った。」「怪しいな。戸沢さ・・・ 芥川竜之介 「お律と子等と」
・・・ 答 国立孤児院にありと聞けり。 トック君はしばらく沈黙せる後、新たに質問を開始したり。 問 予が家は如何? 答 某写真師のステュディオとなれり。 問 予の机はいかになれるか? 答 いかなれるかを知るものなし。 ・・・ 芥川竜之介 「河童」
・・・さもなければ忘れたように、ふっつり来なくなってしまったのは、――お蓮は白粉を刷いた片頬に、炭火の火照りを感じながら、いつか火箸を弄んでいる彼女自身を見出した。「金、金、金、――」 灰の上にはそう云う字が、何度も書かれたり消されたりし・・・ 芥川竜之介 「奇怪な再会」
・・・と云う、古い札が下っていますが、――時々和漢の故事を引いて、親子の恩愛を忘れぬ事が、即ち仏恩をも報ずる所以だ、と懇に話して聞かせたそうです。が、説教日は度々めぐって来ても、誰一人進んで捨児の親だと名乗って出るものは見当りません。――いや勇之・・・ 芥川竜之介 「捨児」
・・・そのほか象牙の箸とか、青銅の火箸とか云う先の尖った物を見ても、やはり不安になって来る。しまいには、畳の縁の交叉した角や、天井の四隅までが、丁度刃物を見つめている時のような切ない神経の緊張を、感じさせるようになった。 修理は、止むを得ず、・・・ 芥川竜之介 「忠義」
・・・佐藤の妻は安座をかいて長い火箸を右手に握っていた。広岡の妻も背に赤ん坊を背負って、早口にいい募っていた。顔を血だらけにして泥まみれになった佐藤の跡から仁右衛門が這入って来るのを見ると、佐藤の妻は訳を聞く事もせずにがたがた震える歯を噛み合せて・・・ 有島武郎 「カインの末裔」
・・・官舎町の後ろは山になっていて、大きな森の中の古寺に一人の乞食が住んでいた。ぼくたちが戦ごっこをしに山に遊びに行って、その乞食を遠くにでも見つけたら最後、大急ぎで、「人さらいが来たぞ」といいながらにげるのだった。その乞食の人はどんなことがあっ・・・ 有島武郎 「火事とポチ」
・・・ 二 坐ると炭取を引寄せて、火箸を取って俯向いたが、「お礼に継いで上げましょうね。」「どうぞ、願います。」「まあ、人様のもので、義理をするんだよ、こんな呑気ッちゃありやしない。串戯はよして、謹さん、東・・・ 泉鏡花 「女客」
・・・ お妻が……言った通り、気軽に唄いもし、踊りもしたのに、一夜、近所から時借りの、三味線の、爪弾で……丑みつの、鐘もおとなき古寺に、ばけものどしがあつまりア…… ――おや、聞き馴れぬ、と思う、うたの続きが糸に紛れた。―・・・ 泉鏡花 「開扉一妖帖」
・・・ 「焼火箸を脇の下へ突貫かれた気がしました。扇子をむしって棄ちょうとして、勿体ない、観音様に投げうちをするようなと、手が痺れて落したほどです。夜中に谷へ飛降りて、田沢の墓へ噛みつこうか、とガチガチと歯が震える。……路傍のつぶれ・・・ 泉鏡花 「神鷺之巻」
出典:青空文庫