・・・第一、この映画を撮影している人々が画面の此方に大勢いるはずである。その人々の中であるいは指揮棒でも振って老人の歌の拍子をとっているコンダクターがいるかもしれないとすると、鴉はその視覚に感ずるある運動する光像のリズムに反応しているのかもしれな・・・ 寺田寅彦 「鴉と唱歌」
・・・これが本葬で、香奠は孰にしても公に下るのが十五円と、恁云う規則なんでござえんして…… それで、『大瀬、お前は晴二郎の死骸を、此まま引取って行くか、それとも此方で本葬をして骨にして持って行くか、孰でも其方の都合にするが可い』と、まあ恁う仰・・・ 徳田秋声 「躯」
・・・ そのとき、知っていたのかどうか、利助は着物を着ながら、此方を振り向いた。そしてじっと、利平の顔を見た……と思った、その眼、その眼……。 利平は、あわてて障子を閉め切った。「あの眼だ、あの眼だ、川村もあの眼だ!」 利平は、お・・・ 徳永直 「眼」
・・・御維新此方ア、物騒でげすよ。お稲荷様も御扶持放れで、油揚の臭一つかげねえもんだから、お屋敷へ迷込んだげす。訳ア御わせん。手前達でしめっちまいやしょう。」 鳶の清五郎は小屋の傍まで、私を脊負って行って呉れた。 今朝方、暁かけて、津々と・・・ 永井荷風 「狐」
・・・調子の合わない広告の楽隊が彼方此方から騒々しく囃し立てている。人通りは随分烈しい。 けれども、電車の中は案外すいていて、黄い軍服をつけた大尉らしい軍人が一人、片隅に小さくなって兵卒が二人、折革包を膝にして請負師風の男が一人、掛取りらしい・・・ 永井荷風 「深川の唄」
・・・然し変物を以て自ら任じていたと見えて、迚も一々此方から世の中に度を合せて行くことは出来ない。何か己を曲げずして趣味を持った、世の中に欠くべからざる仕事がありそうなものだ。――と、その時分私の眼に映ったのは、今も駿河台に病院を持って居る佐々木・・・ 夏目漱石 「処女作追懐談」
・・・のですら、又買い損なったか、使い損なったため、万年筆には多少手古擦っているものですら、愈万年筆を全廃するとなると此位の不便を感ずる所をもって見ると、其他の人が価の如何に拘わらず、毛筆を棄てペンを棄てて此方に向うのは向う必要があるからで、財力・・・ 夏目漱石 「余と万年筆」
・・・さはいえ摸写々々とばかりにて如何なるものと論定めておかざれば、此方にも胡乱の所あるというもの。よって試に其大略を陳んに、摸写といえることは実相を仮りて虚相を写し出すということなり。前にも述し如く実相界にある諸現象には自然の意なきにあらねど、・・・ 二葉亭四迷 「小説総論」
・・・ 蕪村の句の理想と思しきものを挙ぐれば河童の恋する宿や夏の月湖へ富士を戻すや五月雨名月や兎のわたる諏訪の湖指南車を胡地に引き去る霞かな滝口に燈を呼ぶ声や春の雨白梅や墨芳ばしき鴻臚館宗鑑に葛水たまふ大臣かな・・・ 正岡子規 「俳人蕪村」
・・・例えば伽羅くさき人の仮寝や朧月女倶して内裏拝まん朧月薬盗む女やはある朧月河内路や東風吹き送る巫が袖片町にさらさ染るや春の風春水や四条五条の橋の下梅散るや螺鈿こぼるゝ卓の上玉人の座右に開く椿かな梨の花月・・・ 正岡子規 「俳人蕪村」
出典:青空文庫