・・・それをまた毛利先生は、時々紫の襟飾へ手をやりながら、誤訳は元より些細な発音の相違まで、一々丁寧に直して行く。発音は妙に気取った所があるが、大体正確で、明瞭で、先生自身もこの方面が特に内心得意らしい。 が、その生徒が席に復して、先生がそこ・・・ 芥川竜之介 「毛利先生」
・・・それをちゃんと検べて置かないと、とんでもない誤訳をやりかねない。たとえば Cat's paw と云うから、猫の足かと思っていれば、そよ風だったりするたぐいである。 ある時彼は二年級の生徒に、やはり航海のことを書いた、何とか云う小品を教え・・・ 芥川竜之介 「保吉の手帳から」
・・・ほどむずかしいとは思われぬ、私もその心して聞こう故、かたがたもめいめいの心に推しはかり、思うところを私に申して呉れ、たとえかたがたの推量にひがごとがあっても、それは咎むべきでない、奉行の人たちも通事の誤訳を罪せぬよう、と諭した。人々は、承知・・・ 太宰治 「地球図」
・・・これは諷刺の意を誤解せられては差支えるので、故意に原文に従わなかったのである。誤訳ではない。 著:ディモフオシップ 訳:森鴎外 「襟」
・・・そうして、西洋の芸術理論家は、こういうものの存在を拒絶した城郭にたてこもって、その城郭の中だけに通用する芸術論を構成し祖述し、それが東洋に舶来し、しかも誤訳されたりして宣伝されることもあるであろう。 四十年前の田舎の亀さんはやはりいちば・・・ 寺田寅彦 「生ける人形」
・・・原著の方は知らないのであるから誤訳があろうがあるまいが、そんなことは分かるはずもなし、またいくらちがっていてもそんなことは構わない。ただいかにも面白いのでうかうかと二、三十章を一と息に読んでしまった。そうしてその後二、三回の電車の道中に知ら・・・ 寺田寅彦 「変った話」
・・・誤植や誤写の外に、誤訳がある。誤植や誤写は自分に発見し易いが、誤訳はそれがむずかしい。人に指摘して貰って知ることが多い。私は今日まで指摘して貰って、私のそれを承認した誤訳を、ここに発表しようと思う。それは指摘してくれられた人には、没すべから・・・ 森鴎外 「不苦心談」
・・・翻訳の上では、世間が期待と興味とを以て歓迎する誤訳問題がここに成り立つ。最初文芸委員会がファウストを訳することを私に嘱した時、向軍治さんが一面委員会の鑑職の足らぬを気の毒がり、一面私の謙抑しないのを戒めて下すった。世間は向さんの快挙を見て、・・・ 森鴎外 「訳本ファウストについて」
出典:青空文庫