・・・ 為吉とおしかは、もうじいさん、ばあさんと呼ばれていいように年が寄っていた。野良仕事にも、夜なべにも昔日のように精が出なくなった。 債鬼のために、先祖伝来の田地を取られた時にも、おしかはもう愚痴をこぼさなかった。清三は卒業後、両人が・・・ 黒島伝治 「老夫婦」
・・・ほんとうの青年は猜忌や打算もつよく、もっと息苦しいものなのに、と僕にとって不満でもあったあの水蓮のような青年は、それではこの青扇だったのか。そう興奮しかけたけれど、すぐいやいやと用心したのである。「はじめて聞きました。でもあれは、失礼で・・・ 太宰治 「彼は昔の彼ならず」
・・・「僕の名はね、」あきらかに泣きじゃくりの声で、少年は、とぎれとぎれに言い出した。「僕の名はね、佐伯五一郎って言うんだよ。覚えて置いてね。僕は、きっと御恩返しをしてやるよ。君は、いい人だね。泣いたりなんかして、僕は、だらしがないなあ。僕はごは・・・ 太宰治 「乞食学生」
・・・さいわい、山崎氏には、浅見、尾崎両氏の真の良友あり、両氏共に高潔俊爽の得難き大人物にして帷幕の陰より機に臨み変に応じて順義妥当の優策を授け、また傍に、宮内、佐伯両氏の新英惇徳の二人物あり、やさしく彼に助勢してくれている様でありますから、まず・・・ 太宰治 「砂子屋」
・・・人間の頭の働き方はやはり天然現象に似た非再起的なトランシェントな経過をとる場合が多い。数学のような論理的な連鎖を追究する場合ですらも、漠然とした予想の霧の中から正しい真を抽出するには、やはりとぎすました解剖刀のねらいすました早わざが必要であ・・・ 寺田寅彦 「空想日録」
新玉の春は来ても忘れられないのは去年の東北地方凶作の悲惨事である。これに対しては出来るだけの応急救済法を講じなければならないことは勿論であるが、同時にまた将来いつかは必ず何度となく再起するにきまっているこの凶変に備えるよう・・・ 寺田寅彦 「新春偶語」
・・・通例こういう場合には「事がらが再起的 reproducible でないから」という口実で、惜しげもなく放棄されて来たのである。なるほど従来の再起的という言葉はいわゆるデテルミニスティックな意味での再起性を意味するものであるから、そういわれる・・・ 寺田寅彦 「日常身辺の物理的諸問題」
・・・ そういう種類の現象で自分が多年心にかけていたものがいろいろあるが、それらの多数はいずれも事がらが偶然的偏差に支配されるために、結果が決定的再起的でないような種類に属するものである。たとえばガラス板を平坦な台の上に置いて上から鉄の球を落・・・ 寺田寅彦 「物理学圏外の物理的現象」
・・・ブルジョア文化の一形態であったキリスト教婦人同盟の主宰者として活躍した葉子の母の、権力を愛し、主我的な生き方に対して自然の皮肉な競争者として現われた娘葉子が、少女時代から特殊な環境の中で驚くべき美貌と才気とを発揮させつつ、いつしか並はずれな・・・ 宮本百合子 「「或る女」についてのノート」
・・・についていえば夫の留守債鬼に囲まれながら孤城のような店に立てこもっている妻の顔つきは全く内部の感情と結びついたものであって、観る者を納得させた。けれども猫を捨てる海岸の場面、駅前の小料理屋の場面などで、妻の顔は言葉を失ってどちらかというとた・・・ 宮本百合子 「映画の恋愛」
出典:青空文庫