・・・「いざ、立ちてゆかん。娑婆界を隔つる谷へ。 岩むらはこごしく、やま水は清く、 薬草の花はにおえる谷へ。」 マッグは僕らをふり返りながら、微苦笑といっしょにこう言いました。「これはゲエテの『ミニヨンの歌』の剽窃です・・・ 芥川竜之介 「河童」
・・・すると阿呆や悪党を除けば、何びとも何かに懺悔せずには娑婆苦に堪えることは出来ないのかも知れない。 又 しかしどちらの懺悔にしても、どの位信用出来るかと云うことはおのずから又別問題である。 「新生」読後・・・ 芥川竜之介 「侏儒の言葉」
・・・しかしこの娑婆世界には、一々泣いては泣き尽せぬほど、悲しい事が沢山あるぞ。」 御主人は後の黒木の柱に、ゆっくり背中を御寄せになってから、寂しそうに御微笑なさいました。「女房も死ぬ。若も死ぬ。姫には一生会えぬかも知れぬ。屋形や山荘もお・・・ 芥川竜之介 「俊寛」
・・・保吉もまた二十年前には娑婆苦を知らぬ少女のように、あるいは罪のない問答の前に娑婆苦を忘却した宣教師のように小さい幸福を所有していた。大徳院の縁日に葡萄餅を買ったのもその頃である。二州楼の大広間に活動写真を見たのもその頃である。「本所深川・・・ 芥川竜之介 「少年」
・・・己が肉身は、三身即一の本覚如来、煩悩業苦の三道は、法身般若外脱の三徳、娑婆世界は常寂光土にひとしい。道命は無戒の比丘じゃが、既に三観三諦即一心の醍醐味を味得した。よって、和泉式部も、道命が眼には麻耶夫人じゃ。男女の交会も万善の功徳じゃ。われ・・・ 芥川竜之介 「道祖問答」
・・・人と生まれた以上、こういう娑婆にいればいやでも嘘をせにゃならんのは人間の約束事なのだ。嘘の中でもできるだけ嘘をせんようにと心がけるのが徳というものなのだ。それともお前は俺しの眼の前に嘘をせんでいい世の中を作ってみせてくれるか。そしたら俺しも・・・ 有島武郎 「親子」
・・・ やがて、つくづくと見て苦笑い、「ほほう生れかわって娑婆へ出たから、争われねえ、島田の姉さんがむつぎにくるまった形になった、はははは、縫上げをするように腕をこうぐいと遣らかすだ、そう、そうだ、そこで坐った、と、何ともないか。」「・・・ 泉鏡花 「葛飾砂子」
・・・ それが貴方、明前へ、突立ってるのじゃあございません、脊伸をしてからが大概人の蹲みます位なんで、高慢な、澄した今産れて来て、娑婆の風に吹かれたという顔色で、黙って、おくびをしちゃあ、クンクン、クンクン小さな法螺の貝ほどには鳴したのでござ・・・ 泉鏡花 「政談十二社」
・・・ べそかくばかりに眉を寄せて、「牡丹に立った白鷺になるよりも、人間は娑婆が恋しかんべいに、産で死んで、姑獲鳥になるわ。びしょびしょ降の闇暗に、若い女が青ざめて、腰の下さ血だらけで、あのこわれ屋の軒の上へ。……わあ、情ない。……お救い・・・ 泉鏡花 「燈明之巻」
・・・突然、年増の行火の中へ、諸膝を突込んで、けろりとして、娑婆を見物、という澄ました顔付で、当っている。 露店中の愛嬌もので、総籬の柳縹さん。 すなわちまた、その伝で、大福暖いと、向う見ずに遣った処、手遊屋の婦は、腰のまわりに火の気が無・・・ 泉鏡花 「露肆」
出典:青空文庫