・・・流を挟む左右の柳は、一本ごとに緑りをこめて濛々と烟る。娑婆と冥府の界に立ちて迷える人のあらば、その人の霊を並べたるがこの気色である。画に似たる少女の、舟に乗りて他界へ行くを、立ちならんで送るのでもあろう。 舟はカメロットの水門に横付けに・・・ 夏目漱石 「薤露行」
・・・二十六年も娑婆の気を吸ったものは病気に罹らんでも充分死ぬ資格を具えている。こうやって極楽水を四月三日の夜の十一時に上りつつあるのは、ことによると死にに上ってるのかも知れない。――何だか上りたくない。しばらく坂の中途で立って見る。しかし立って・・・ 夏目漱石 「琴のそら音」
・・・彼らが舟を捨ててひとたびこの門を通過するやいなや娑婆の太陽は再び彼らを照らさなかった。テームスは彼らにとっての三途の川でこの門は冥府に通ずる入口であった。彼らは涙の浪に揺られてこの洞窟のごとく薄暗きアーチの下まで漕ぎつけられる。口を開けて鰯・・・ 夏目漱石 「倫敦塔」
・・・おいらあ、一月娑婆に居りあ、お前さんなんかが、十年暮してるよりか、もっと、世間に通じちまうんだからね。何てったって、化けるのは俺の方が本職だよ。尻尾なんかブラ下げて歩きゃしねえからな。駄目だよ。そんなに俺の後ろ頭ばかり見てたって。ホラ、二人・・・ 葉山嘉樹 「乳色の靄」
・・・ 監獄で考えるほど、もちろん、世の中は、いいものでもないし、また娑婆へ出て考えるほど、もちろん、監獄は「楽に食えていいところ」でもない。一口に言えば、社会という監獄の中の、刑務所という小さい監獄です。 二 私は面・・・ 葉山嘉樹 「牢獄の半日」
・・・「生きてる間丈け、娑婆に置いて呉れ」 彼は手を合せて頼んだ。 ――俺が、いつ、お前等に蹴込まれるような、悪いことをしたんだ――と彼の眼は訴えていた。 下級海員たちは、何か、背中の方に居るように感じた。又、彼等は一様に、何かに・・・ 葉山嘉樹 「労働者の居ない船」
・・・静かだッて淋しいッてまるで娑婆でいう寂莫だの蕭森だのとは違ってるよ。地獄の空気はたしかに死んでるに違いない。ヤ音がするゴーというのは汽車のようだがこれが十万億土を横貫したという汽車かも知れない。それなら時々地獄極楽を見物にいって気晴らしする・・・ 正岡子規 「墓」
・・・「もとは、滅多に留置場へなんか入って来る者もなかったが、その代り入って来る位の奴は、どいつも娑婆じゃ相当なことをやって来たもんだ。それがこの頃じゃどうだ! ラジオだ、ナマコ一枚だ、で留置場は満員だものなア。きんたまのあるような奴が一人で・・・ 宮本百合子 「刻々」
・・・王 御事は母御がうみそこのうて口から先に娑婆の悪い風にふれたと見ゆるわ。法 そのためで経典を誦する事がいこう巧者になりまいてのう――まんざらそんばかりもまいらなんだがまだしもの事―― ま! とどのつまり船は畑ではよう漕げぬと・・・ 宮本百合子 「胚胎(二幕四場)」
・・・「何か娑婆で忘れて来た事があるなら、一日だけ暇を貰って帰って来る権利があるのだ。正当に死ねるはずの時が来て死んだものには、そんな権利は無い、もう用事が無いはずだからな。自殺したものとなるととかく何かしら忘れて来るものだ。そのために娑婆の・・・ 著:モルナールフェレンツ 訳:森鴎外 「破落戸の昇天」
出典:青空文庫