・・・散々ないたあげく母親が弟子に稽古をつけて居る三味の音に気をとられて小声で合わせたりなんかして悲しさを忘れては、「又あした」 こんな事を思うと急に暗いかげがさしてだまり込んで淋しいかおをして居るのがふだんであった。 其の日も下駄を・・・ 宮本百合子 「つぼみ」
・・・夜、御となりで御琴と三味線合奏をはじめられた、楽器の音はうれしかったけれども三味せんのベコベコとうた声の調子ぱずれには少しなさけなかった。七月二十九日 やたらに旅に出て見たい日だった、ただどっか歩きまわって見たくって何にも手につ・・・ 宮本百合子 「日記」
・・・夜のはなやかな祇園のそばに家があったんで夜がかなり更けるまでなまめいた女の声、太鼓や三味の響が聞えて居る中でまるで極楽にでも行く様な気持で音の中につつまれて眠りについたのは私には忘られないほどうれしい、気持のいいねつき様であった。大きなリボ・・・ 宮本百合子 「ひな勇はん」
・・・この辺は旭町の遊廓が近いので、三味や太鼓の音もするが、よほど鈍く微かになって聞えるから、うるさくはない。 竹が台所から出て来て、饂飩の代りを勧めると、富田が手を揮って云った。「もういけない。饂飩はもう御免だ。この家にも奥さんがいれば・・・ 森鴎外 「独身」
・・・『吾輩は猫である』のなかに描かれている苦沙弥先生夫妻の間柄は、決して陰惨な印象を与えはしない。作者はむしろ苦沙弥夫人をいつくしみながら描いている。だから私は漱石夫妻の仲が悪いなどということを思ってもみなかったのである。実際またこの日の夫人は・・・ 和辻哲郎 「漱石の人物」
出典:青空文庫