・・・ かるが故に、月光をして汝の逍遙を照らしめよ、霧深き山谷の風をしてほしいままに汝を吹かしめよ。汝今日の狂喜は他日汝の裏に熟して荘重深沈なる歓と化し汝の心はまさにしき千象の宮、静かなる万籟の殿たるべし。 ああ果たしてしからんか、あるい・・・ 国木田独歩 「小春」
・・・ あの時は山羊のごとく然り山野泉流ただ自然の導くままに逍遙したり。あの時は飛瀑の音、われを動かすことわが情のごとく、巌や山や幽なる森林や、その色彩形容みなあの時においてわれを刺激すること食欲のごときものありたり。すなわちあの時はただ愛、・・・ 国木田独歩 「小春」
・・・十一月一日に六郎左衛門が家のうしろの家より、塚原と申す山野の中に、洛陽の蓮台野のやうに死人を捨つる所に、一間四面なる堂の仏もなし。上は板間合はず、四壁はあばらに、雪降り積りて消ゆる事なし。かゝる所に敷皮うちしき、蓑うちきて夜を明かし、日を暮・・・ 倉田百三 「学生と先哲」
・・・この窟地理の書によるに昇降およそ二町半ばかり、一度は禅定すること廃れしが、元禄年中三谷助太夫というものの探り試みしより以来また行わるるに至りしという。窟のありさまを考うるに、あるいは闊くなりあるいは狭くなり、あるいは上りあるいは下り、極めて・・・ 幸田露伴 「知々夫紀行」
・・・濠洲の或る土人の如きは、其妻の死するや、之を山野に運び、其脂をとりて釣魚の餌となすと云う。 その若草という雑誌に、老い疲れたる小説を発表するのは、いたずらに、奇を求めての仕業でもなければ、読者へ無関心であるということへの・・・ 太宰治 「雌に就いて」
・・・うぐいすの鳴くころになると、山野は緑におおわれ、いろいろの木の実、草の実がみのり、肌を刺す寒い風も吹かなくなるということを教えられたに相違ない。うぐいすの声がきらいな人などありようはない。 星野温泉の宿の池に毎朝水鶏が来て鳴く。こぶし大・・・ 寺田寅彦 「軽井沢」
・・・ 三谷の渓間へ虎杖取りに行ったこともあった。薄暗い湿っぽい朽葉の匂のする茂みの奥に大きな虎杖を見付けて折取るときの喜びは都会の児等の夢にも知らない、田園の自然児にのみ許された幸福であろう。これは決して単なる食慾の問題ではない。純な子供の・・・ 寺田寅彦 「郷土的味覚」
・・・子供の時分に少しばかり植物の採集のまね事をして、さくようのようなものを数十葉こしらえてみたりしたことはあったが、その後は特別に山野の植物界に立ち入った観察の目を向けるような機会もなくて年を経て来た。最近にある友人の趣味に少しかぶれて植物界へ・・・ 寺田寅彦 「沓掛より」
・・・と称する種類のものより、むしろ自然な山野の雑木林を選みたい。 しかしそのような過剰の許されない境遇としては、樹木のほうは割愛しても、芝生だけは作らないではいられなかった。そうして木立ちの代わりに安価な八つ手や丁子のようなものを垣根のすそ・・・ 寺田寅彦 「芝刈り」
・・・上記のシバテンはまた夜釣りの人の魚籠の中味を盗むこともあるので、とにかく天使とはだいぶ格式が違うが、しかし山野の間に人間の形をした非人間がいて、それが人間に相撲をいどむという考えだけは一致している。 自分たちの少年時代にはもう文明の光に・・・ 寺田寅彦 「相撲」
出典:青空文庫