・・・「それはありがとうござります」と、お貞はお君に目くばせしながら、「風通しのええ二階の三番がよかろ。あすこへ御案内おし」「なアに、どこでもいいですよ」と、僕は立ってお君さんについて行った。煙草盆が来た、改めてお茶が出た。「何を・・・ 岩野泡鳴 「耽溺」
・・・跟をも追はず、その傍を打通れば鼻つらをさしのべて臭ひを嗅ぐのみにて余所を向く、この頃はを食する事稀なれば残りを食まする事もしばしばあらざればと心の中に思ひたり、ただこう思ひたるばかりにてさして心に留めざりしかど何となく快からず」とあるは犬に・・・ 内田魯庵 「二葉亭余談」
・・・は人の心の福なる状態であると云う、人類の審判に関わるイエスの大説教(馬太伝二十四章・馬可は是猶太思想の遺物なりと称して、之を以てイエスの熱心を賞揚すると同時に彼の思想の未だ猶太思想の旧套を脱卻する能わざりしを憐む、彼等は神の愛を説く、其怒を・・・ 内村鑑三 「聖書の読方」
・・・真っ直ぐお出でになって、橋を渡って下されやんしたら、灯が見えますでござりやんす」 客引きは振り向いて言った。自転車につけた提灯のあかりがはげしく揺れ、そして急に小さくなってしまった。 暗がりのなかへひとり取り残されて、私はひどく心細・・・ 織田作之助 「秋深き」
・・・れた惨めな気持にされて帰らねばならぬのだ―― 彼は歯のすっかりすり減った日和を履いて、終点で電車を下りて、午下りの暑い盛りをだら/\汗を流しながら、Kの下宿の前庭の高い松の樹を見あげるようにして、砂利を敷いた坂路を、ひょろ高い屈った身体・・・ 葛西善蔵 「子をつれて」
・・・ 朝夕のたつきも知らざりし山中も、年々の避暑の客に思わぬ煙を増して、瓦葺きの家も木の葉越しにところどころ見ゆ。尾上に雲あり、ひときわ高き松が根に起りて、巌にからむ蔦の上にたなびけり。立ち続く峰々は市ある里の空を隠して、争い落つる滝の千筋・・・ 川上眉山 「書記官」
・・・様大笑いいたされ候も無理ならぬ事にござ候 先日貞夫少々風邪の気ありし時、母上目を丸くし『小児が六歳までの間に死にます数は実におびただしいものでワッペウ氏の表には平均百人の中十五人三分と記してござります』と講義録の口調そっくりで申・・・ 国木田独歩 「初孫」
・・・ 柳の間をもれる日の光が金色の線を水の中に射て、澄み渡った水底の小砂利が銀のように碧玉のように沈んでいる。 少年はかしこここの柳の株に陣取って釣っていたが、今来た少年の方を振り向いて一人の十二、三の少年が『檜山! これを見ろ!』・・・ 国木田独歩 「河霧」
・・・ お政は痛ましく助は可愛く、父上は恋しく、懐かしく、母と妹は悪くもあり、痛ましくもあり、子供の時など思い起しては恋しくもあり、突然寄附金の事を思いだしては心配で堪らず、運動場に敷く小砂利のことまで考えだし、頭はぐらぐらして気は遠くなり、・・・ 国木田独歩 「酒中日記」
・・・ また上野殿への返書として、「鎌倉にてかりそめの御事とこそ思ひ参らせ候ひしに、思ひ忘れさせ給はざりける事申すばかりなし。故上野殿だにもおはせしかば、つねに申しうけ給はりなんと嘆き思ひ候ひつるに、御形見に御身を若くしてとどめ置かれける・・・ 倉田百三 「学生と先哲」
出典:青空文庫