・・・川添の公設市場。タールの樽が積んである小屋。空地では家を建てるのか人びとが働いていた。 川上からは時どき風が吹いて来た。カサコソと彼の坐っている前を、皺になった新聞紙が押されて行った。小石に阻まれ、一しきり風に堪えていたが、ガックリ一つ・・・ 梶井基次郎 「ある心の風景」
・・・ 小婢の利休の音も、すぐ表ての四条通ではこんなふうには響かなかった。 喬は四条通を歩いていた何分か前の自分、――そこでは自由に物を考えていた自分、――と同じ自分をこの部屋のなかで感じていた。「とうとうやって来た」と思った。 ・・・ 梶井基次郎 「ある心の風景」
・・・ 田園、平野、市街、市場、劇場。船着場や海。そう言った広大な、人や車馬や船や生物でちりばめられた光景が、どうかしてこの暗黒のなかへ現われてくれるといい。そしてそれが今にも見えて来そうだった。耳にもその騒音が伝わって来るように思えた。・・・ 梶井基次郎 「城のある町にて」
・・・ それはある日吉田が病院の近くの市場へ病人の買物に出かけたときのことだった。吉田がその市場で用事を足して帰って来ると往来に一人の女が立っていて、その女がまじまじと吉田の顔を見ながら近付いて来て、「もしもし、あなた失礼ですが……」・・・ 梶井基次郎 「のんきな患者」
・・・でないものをば一斉に書面を却下することとし、また相当の条件を具えた書面が幾通もあるときは、第一着の願書を採用するという都合らしく、よっては今夜早速に、それらの相談を極めておき、いよいよ今度の閣令が官報紙上に見えた日に、それを待ち受けていて即・・・ 川上眉山 「書記官」
・・・ 六 恋愛以上の高所 恋愛が青春にとって如何に重要な、心ひかれるテーマであるからといって、人生において、恋愛が至上ではない。青春時代において恋愛問題が常に頭をいっぱいに占領してはならない。宇宙と自己、社会共同体と自己・・・ 倉田百三 「学生と生活」
・・・ 急を聞いて馳せつけた四条金吾が日蓮の馬にとりついて泣くのを見て、彼はこれを励まして、「この数年が間願いし事是なり。此の娑婆世界にして雉となりし時は鷹につかまれ、鼠となりし時は猫にくらわれ、或いは妻子に、敵に身を捨て、所領に命を失いし事・・・ 倉田百三 「学生と先哲」
・・・それは後に身延隠棲のところでも書くが、その至情はそくそくとしてわれわれを感動させるものがある。今も安房誕生寺には日蓮自刻の父母の木像がある。追福のために刻んだのだ。うつそみの親のみすがた木につくりただに額ずり哭き給ひけん こ・・・ 倉田百三 「学生と先哲」
・・・ この習慣の背後には、一般に、書物至上主義でないまでも、過度の書物依頼主義が横たわっている。この習慣は信じられぬほど安易への誘惑を導くものであり、もはや独立して思索したり、研究したりする労作と勇猛心と野望とにたえがたくするものである。他・・・ 倉田百三 「学生と読書」
・・・帝国主義的発展の段階に這入った資本主義は、その商品市場を求めるためと、原料を持って来るために、新しく植民地の分割を企図する。植民地の労働者をベラ棒に安い、牛か馬かを使うような調子に働かせるために、威嚇し、弾圧する。その目的に軍隊を使う。満洲・・・ 黒島伝治 「入営する青年たちは何をなすべきか」
出典:青空文庫