・・・今日もちょうどそのころのことを久しぶりで思い出しました。今思うと、私が十七八の時分ひとが尺八を吹くのを聞いて、心をむしられるような気がしましたが、今私が九つや十の子供の時を想い出して堪らなくなるのとちょうど同じ心持でございます。 父には・・・ 国木田独歩 「女難」
・・・小心な鴉が重そうに羽ばたきをして、烈しく風を切りながら、頭上を高く飛び過ぎたが、フト首を回らして、横目で自分をにらめて、きゅうに飛び上がッて、声をちぎるように啼きわたりながら、林の向うへかくれてしまッた。鳩が幾羽ともなく群をなして勢いこんで・・・ 国木田独歩 「武蔵野」
・・・がそれかといって、冷くすましていられるのもとりつくしまがない。求める心を内に抱いて、外はいくらか結晶性なのが――という意味は化合するまでには溶解することを要するという意味なのが相応しい気がする。それは「結ばれやすい」という性質は一方また「離・・・ 倉田百三 「人生における離合について」
こう暑くなっては皆さん方があるいは高い山に行かれたり、あるいは涼しい海辺に行かれたりしまして、そうしてこの悩ましい日を充実した生活の一部分として送ろうとなさるのも御尤もです。が、もう老い朽ちてしまえば山へも行かれず、海へも出られないで・・・ 幸田露伴 「幻談」
・・・客窓の徒然を慰むるよすがにもと眼にあたりしままジグビー、グランドを、文魁堂とやら云える舗にて購うて帰りぬ。午後、我がせし狼藉の行為のため、憚る筋の人に捕えられてさまざまに説諭を加えられたり。されどもいささか思い定むるよし心中にあれば頑として・・・ 幸田露伴 「突貫紀行」
・・・ 口から出まかせに、いい加減の返事をして、そうして、言ってしまってから、何だかとんでも無い不吉な事を言ったような気がして、肌寒くなりました。「お寺へ? 何しに?」「お盆でしょう? だから、お父さまが、お寺まいりに行ったの。」・・・ 太宰治 「おさん」
・・・天神様や観音様にお礼を申し上げたいところだが、あのお光の場合は、ぬかよろこびであったのだし、あんな事もあるのだから、やっと百五十一枚を書き上げたくらいで、気もいそいその馬鹿騒ぎは慎しまなければならぬ。大事なのは、これからだ。この短篇小説を書・・・ 太宰治 「鉄面皮」
・・・ 次に問題になるのは F(H)uz(d, t)i, Hiuti, Kudy, Kdu(sima), Kuti(no sima) の類である。KとHは日本語でもしばしば転化するからここではかりに同じと見て、次のような子音分類をする。すなわ・・・ 寺田寅彦 「火山の名について」
・・・「何しろ七月はばかに忙しい月で、すっかり頭脳をめちゃくちゃにしてしまったんで、少し休養したいと思って」「それなら姉の家はどうですか。今は静かです」「さあ」道太の姪の家も広くはあるし、水を隔てて青い山も見えるので、悪くはないと思っ・・・ 徳田秋声 「挿話」
・・・ここにおいて飛耳長目の徒は忽ちわが身辺を揣摩して艶事あるものとなした。 巴里輸入の絵葉書に見るが如き書割裏の情事の、果してわが身辺に起り得たか否かは、これまたここに語る必要があるまい。わたしの敢えて語らんと欲するのは、帝国劇場の女優を中・・・ 永井荷風 「十日の菊」
出典:青空文庫